数年前のある日、出版社のKさんから「実は、神戸に拠点を置く某企業の会長I氏の自叙伝出版をお手伝いをしていただきたいのですが」という連絡をいただきました。
掲載する媒体にもよりますが、私の書く文章にはある特徴があります。例えば旅の取材なら、旅先の風情や宿の描写だけでなく、宿を守る女将や板さん、仲居さんのこだわりなど、必ず人ありきで綴るのです。私は人の心の機微や行動を描写するのが好きなのです。ですから、この自叙伝出版のお手伝いは何より嬉しい案件でした。
連絡をいただいた数日後、Kさんと共にI氏の会社へ伺いました。お見合とは違いますが、人には相性ってものがありますから、この時点で話が流れてしまうのはよくあることです。幸いなことに日ごろからI氏と面識のあるKさんの紹介ということもあり、話はそのままスムーズに進む運びとなりました。
この仕事の場合、時間をたっぷり取ってI氏と何度もお会いして、じっくり話を聴かせていただくことから始まります。そして年代ごとに伺う話がよりスムーズに流れるように、更に細かく構成をかけながら原稿にするのが私の役割です。
Kさんを交えて大まかなスケジュールを組み終えると、いよいよ取材開始です。幼少期から小中高校時代、大学、社会人、結婚…と、各年代で経験された出来事と心の内を包み隠さず聞かせていただくことになります。文字にすると簡単な作業のように思えますが、実はこの“心を許して話せる関係”を作るのがとても重要なのです。
あなたは、昨日今日会ったばかりの人間に心を開けますか?
これってなかなか難しいことですよね。しかし、I氏はもう随分前から私を知っているように、いつもにこやかに楽しく話を聴かせてくださいました。ここはひとつ恰好を付けて「ほら見て、これが私の実力よ」なんて冗談でも言ってみたいところですが、とんでもない!実のところは、I氏が広い心で私を受け入れてくださったからに他ありません。
取材時間は毎回二時間半ほどです。I氏が話される中に登場する出来事を、いろんな角度から掘り起こしながら訊ねてみるのです。すると、まるで往時に戻ったように、その時の情景や感情を鮮明に思い返されて…ゆっくりじっくりと話を聴かせていただくことができるのです。こうして、取材は二回、三回と順調に進んで行ったのです。
ところが、何回か取材をするうちに、私にちょっとした変化が生じたのです。
つづく