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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)9月13日(月曜日)
通巻第7048号  
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 また一歩前進、アメリカの台湾代表部が「台湾」を正式名称に
  台湾日本研究院が発足、「日本版『台湾関係法』を」提唱
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 劇的にかわりつつある米台関係だが、バイデン大統領は一月の就任式に駐米台湾代表の粛美琴を式典に招待し、名刺には「大使」と印刷しても問題はなかった。日本もただちに台北にある事実上の大使館にあたるオフィス代表を「大使」とした。
 
 ワシントンにある事実上の台湾大使館は「駐美国台北経済文化研究処」という。
9月12日、台湾外交部は、この代表機関の名称が「台湾」となったことを発表した。東京にある台湾代表部もいずれ近いうちに「駐日台湾文化経済代表処」と『台北』から「台湾」に変更されるだろう。

 同日、台湾では「台日アカデミー」(台湾日本研究院)が発足した。代表挨拶に立った郭国文は「いずれに日本も米国のような「台湾関係法」の法律可決を自民党に望みたい」と演説した。

 日本の国会議員には恥知らずの親中派が多いが、安倍、岸ラインを基軸に台湾大好き議員連盟の活躍も目立つようになっている。
 米台関係の劇的な変化とともに、日台関係の深化もすすんでいる。
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  ☆お知らせ
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宮崎正弘の新刊『日本人が知らない 本当の路地裏中国──乗って歩いた! 全33省旅遊記』(啓文社書房)をめぐって、特番(日本文化チャンネル桜)が編集されました。
https://www.youtube.com/watch?v=Z5UrrYOO3HM
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム 
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 【知道中国 2274回】            
 ──英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港156)

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 第六劇場を常打ち小屋として京劇を演じていた童伶(こどもやくしゃ)は、春秋戯劇学校の生徒たち。校舎は尖沙咀の宝勒巷(PRAT AVE)が漆咸道(CHATHAM ROAD)にぶつかる少し手前の左側にあった。
古い低層ビルで、石造りの階段を上った先が入り口。その右手に春秋戯劇学校の看板が掛けられていた。例の数学教授に連れられて行った猿料理の店は、たしか宝勒巷を挟んで春秋戯劇学校の向かいの薄暗い路地の先だったような。

 童伶の年齢は小学校低学年から中高生程度。中には20歳を過ぎたと思しき薹が立った童伶も見られた。
日中は学校で稽古し、夜は第六劇場で舞台に立つ。常打ちだから、1年365日休みなし。稽古に舞台の毎日だから、普通の子供たちのような勉強をする時間はないだろう。こんな疑問を、第六劇場で顔馴染みになった頃に学校関係者に尋ねると、「ウチも学校だから」との返事。だが、どう考えてもマトモに勉強している風には思えなかった。

 中には京劇役者になろうと望んで入学した者もいただろうが、彼らの多くは生活苦から親が学校に預けたり、孤児だったり。その多くはハングリーな生活環境にあった。芸で身を立てようというわけだ。

 その昔、舞台に立つのは役者の子弟、「科班」と呼ばれた役者養成所の出身者、芝居好きの素人である「票友」から転じた者であった。
役者家庭出身の筆頭が京劇を世界に知らしめた梅蘭芳だが、この系統の役者は票友出身者と同じように極めて少ない。19世紀末から20世紀半ばまでの京劇の黄金期を彩った役者の多くは科班出身者である。

 京劇と日本の古典芸能──歌舞伎、能、狂言から落語など歌舞音曲の世界──を対比して不思議に思うことは、日本では芸の伝承のために「名跡継承」という制度があるが、中国にはそれに類する制度が見当たらないことである。
たとえば歌舞伎では市川團十郎の芸は家芸として市川宗家に伝わる。團十郎の息子は團十郎の名跡と芸を継ぐ。そこで十一代目海老蔵は十三代目團十郎を名乗るわけだ。落語でも柳家小さんや林家正蔵のように一族の血と結びついた名跡がある。三遊亭圓歌の場合は血の繋がりはないが、先代(三代目:歌奴)から当代(四代目:歌之介)へと芸が引き継がれている。

 中国の古典芸能の世界においては日本に見られる名跡という考えがない。
梅蘭芳のように世界的に知られた稀代の名優であっても「初代」ではないから、とうぜん「二代目」以降も存在しない。息子の梅葆玖も父親と同じく「旦(おやま)」を演じたが、「二代目梅蘭芳」を名乗るわけではなく、また名乗れない。いわば役者は誰もが初代で、その芸は一代限りなのである。

 名跡を受け継ぐと言う発想がないから、日本の古典芸能の世界でみられるような一家が練り上げた芸を親から子へ、子から孫へと血と共に子々孫々に伝えることも、見込みある部屋子を鍛え上げて芸養子として迎え家芸の永続を目指すこともない。
落語のように一門の芸風を伝えるため、先代師匠の芸に最も近いと認められた弟子が名跡を継ぐこともない。

 たとえば梅蘭芳に倣った芸風の役者を「梅派」と呼び、「流派」の2文字で芸の系譜を表現することはあるが、あくまでも芸はその役者個人に限られる。
これが中国の伝統芸における伝統と芸の「在り方」と捉えることができるだろう。

 もっとも譚志道⇒譚◎培⇒譚小培⇒譚富英⇒譚元寿⇒譚孝曽⇒譚元岩のように「生(たちやく)」の芸を1世紀半以上も継承している役者一族もあるが、極めつきの稀有な例だ。京劇の世界での譚一族の地位は歌舞伎界で言うなら市川宗家に当たりそうだが、とはいえ譚志道から譚元岩まで、誰もが初代であり、何代目を名乗ることはない。

 伝統芸と名跡──ここら辺りに〈生き方〉〈生きる姿〉〈生きる姿〉としての文化の違いがありそうだが・・・と問題提起に止め、話を第六劇場と春秋戯劇学校に戻したい。

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【知道中国 2275回】       
 ──英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港157)

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 春秋戯劇学校校長の粉菊花女史は、かつて立ち回りを主とする娘を演ずる「刀馬旦」と呼ばれる役柄で上海の舞台に立っていた。当時は60代後半ではなかったか。白髪交じりで、高齢女性の間で一般的だったオカッパ風の髪型。背は高くはなく細身だった。江青によく似た顔つきで、いつも舞台の袖辺りから童伶の演技に鋭い視線を投げ掛けていた。

 童伶が演技をトチッたり、勝手な所作など見せると、演技中であっても鋭く罵声を浴びせ、叱正した。その姿は法廷で金切り声を張り上げて弁明に努める一方、自分を逮捕した共産党幹部──かつては毛沢東の臣下であり、毛沢東が死んだら手のひらを返すように江青を窮地に陥れた──を、悪し様に罵っていた江青を連想させるに十分だった。

 粉校長の怒りに童伶は竦んでしまい、演技は止まる。舞台のうえの共演者たちも金縛りに遭ったように動きを止め、客席は戸惑い、息を呑む。小屋全体にイヤ〜な雰囲気が流れるが、彼女は一向に気にする風を見せない。一瞬の後、演技はぎこちなく再開される。

 だが、それで終わりではない。舞台が跳ねるや、恐怖の「打戯」が始まる。俗に「好戯還在後台(面白い出し物は楽屋で)」と言うが、しくじった童伶を舞台に呼び戻し、目の前でおさらいをさせる。首、手、足、腰・・・間違えたところを手にしたムチでピシリッ、バチッ。躊躇なしである。物見高いは何とやら。
客が去り、明かりも消され暗くなった座席で見学させてもらうが、やはり童伶が可哀想で気まずいかぎり。ならば即刻立ち去るべきだが、好奇心は同情に勝る。打戯の一部始終をジックリと見させてもらったことも屡々。
 舞台が始まる前の稽古でも打戯は見られたから、観客の目が気にならない学校では相当に激しく、容赦することなく打戯が行われていただろう。

 もちろん児童虐待と非難されても仕方がないが、当時は香港でも取り立てて問題にはならなかった。むしろ粉校長からすれば、確かな芸を身につけることで童伶が明るい将来を招き寄せることになるはずだといった固い信念で振るった“愛のムチ”に違いない。

 後に『さらば、わが愛/覇王別妃』(1993年)の冒頭で科班の師匠からの打戯に耐えかねた童伶が首つり自殺をするシーンを見た時、咄嗟に粉校長の打戯を思い出したものだ。ついでだが、この映画の主人公が習芸に励んだ科班のモデルが、清末から民国期の北京にあって多くの名優を輩出したことで知られる富連成(前身は喜連成)である。

 ついでのついで。香港映画『七小福』(1988年)は中国戯劇学院をモデルにしたとされるが、同学院の童伶が公演する小屋が?園内に設定されているところからして、あるいは中国戯劇学院は春秋戯劇学校を指しているのだろうか。当時、春秋戯劇学校と同じような戯劇学校が香港島にある(あった)といった話を耳にしたことがあるから、両校は別なのかもしれない。中国戯劇学院が閉校した後、春秋戯劇学校が第六劇場の公演を引き継いだ。あるいは春秋戯学校の閉校の方が先立ったのか。

 今となってはどうでもいいことだが、粉校長の隣に控え常に笑顔を絶やさなかった小太りで桃割れ頭の李国祥さんなら、その辺の詳しい事情を知っていたはず。とはいえ敢えて断るまでもなく枝葉末節。そう、どうでもいいことではある。

 打戯もまた習芸の道とはいうものの、余り気分のいいものではない。ある夜、打戯を見た後で気分転換に尖沙咀に戻り、厚福街の突き当たりの左手にあった上海料理「三六九」へ。すると春秋戯劇学校で童伶の世話役で、第六劇場で「検場(くろこ)」を努めている孫さんが一人で食事中だった。
「先ほどは大変でしたね。お食事ですか」などと声を掛けながらポケットを探ると、いつになく懐に余裕があった。そこで三六九の馴染みの年老いた「?計(ボーイ)」にソッと、「あと一品とビール。勘定はこっちで」。やがて孫さんが「どうもごちそうさま」。
ちょっとしたタニマチ気分。分不相応に優雅な一瞬だった。

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