九万八千神社 余話 2 堀口氏1 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

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 堀口氏が多く居住する地を調べていくと、なるほど、『埼玉苗字辞典』の、《鉱山鍛冶集団等の非農民集落を堀口と称す。(略)此氏は武蔵国・上野国の山間部の鉱山地及び砂鉄の採取出来る川岸に多く存す。》という指摘も、うべなるかなと得心してしまうが、実は、もう一つ見えてくるものがある。

 堀口氏の分布は、おそらく埼玉県が最も多く、次いで群馬県ということになろうか。この2県で同氏の全国分布の3割程度を占める。

 

     

      宝登山から左 金岳方面

 埼玉県のなかでは、秩父市と秩父郡に多く、秩父市は大野原、秩父郡では長瀞町(旧藤谷淵村)に際立って多い。《藤谷淵村(長瀞町) 当村に此氏多く存す。朝廷に献上された和銅はこの周辺から採取されたもので銅鍛錬の火所(ほど)を建てたので宝登山と称したと云う。当村は古代の鉱山鍛冶集落なり。》《大野原村(秩父市) 当村に此氏多く存す》(以上『埼玉苗字辞典』)大野原は、自然銅が出たという黒谷の南西隣に当たり、長瀞町については、『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』に、《当町(長瀞町)の場合、鉱山に関係のある地名として宝登山を火止山・火所山とすると考えられていること。山麓の東部に採銅鉱遺跡をはじめ、隣接天狗山山麓遺跡、荒川沿岸の金山遺跡、渡し場の金石、井戸の金ヶ岳、西浦両地区の採銅遺跡、金尾などの地名があげられている。このうち時代は未詳であるが、西浦遺跡地には5個の坑口が残されていて、高さ1.5~4m・幅2.4m・延長100mにおよぶ坑道がある。また金ヶ岳は登山口を「銅の入」といい、山中には延長60mの坑道を持つ坑口3か所があり、ここで採取した自然銅塊が長瀞自然博物館、長瀞綜合博物館、山麓の法善寺に所蔵されている。》とあり、どちらも、まぎれもなく鉱山地帯といえる。

 さらに、多いところを列挙すると、熊谷市三ケ尻。《十三戸現存す。》(『埼玉苗字辞典』)

 

    
     三ケ尻 観音山

 


 ここの観音山とも狭山とも呼ばれる山について、渡辺崋山の『訪瓺録(ほうちょうろく)』に、《土色赭(そほ)の如し。鐵脈満山七八年前坑首夫を催し、坑を開く事縦横數道、終に一礦を不見して止む。》という一節があることはすでに書いた。

 

 

《終に一礦を不見して止む。》というのは、要するに、採算が合わないので掘るのをやめた、ということであって、全く何も出なかったいうことではないと考えられる。なぜなら、そこにも書いたが、龍泉寺の観音堂には、かつてあった少間(さやま)池から出現したという金鋳千手大士(千手観音菩薩)が本尊として祀られており、少間池には片目伝承と共に、椀貸伝承もあったからで、決定的なのは、観音堂の西350mにタタラ薬師堂があることである。

 

    
      少間池跡

    
      タタラ薬師堂

 

 北足立郡吹上町大芦。《行田史譚に「大芦村。寛永年中名主堀口源兵衛、享保六年名主堀口源兵衛、天保元年名主堀口三郎右衛門」》《十戸現存す》(『埼玉苗字辞典』)

 現在の鴻巣市大芦。ここの堀口氏には上野国の新田氏の遺臣堀口氏の伝承が付きまとっているようである。昭和30年代まで、大芦から吹上小学校・吹上団地にかけて勝負沼という大きな沼があり、一帯は大小の沼が点在する湿地帯だったという。勝負沼の由来は、武蔵国の介源経基と村岡の平良文とが沼を挟んで何度も争ったが、勝負はつかず、仲直りした、という話に因む。

 勝負沼のショウブとは、上に挙げた崋山の『訪瓺録』にある《土色赭の如し》の「赭(そほ)」に由来する語と考えられる。赭について、『角川古語辞典』には、《塗料に用いた赤色の土。また、その色。》とあり、おそらく第二酸化鉄のベンガラを意味していると思われ、朝鮮語で鉄を意味する쇠(soe ソエ・スエ)という語に因むのではなかろうか。ソホという語は、ソボ(祖母)・ソブ(祖父)・シブ(渋)・ショウブ(勝負・菖蒲)などに変化する。赤く鉄分の多い水田を渋田といい、『播磨国風土記』「讃容郡」には《其の刃は渋(さ)びず》と「錆びる」に渋の字を当てている。また、尾瀬地域では、毎年、5月から6月に、残雪が赤褐色に染まる現象をアカシブ、あるいはアカシボなどと呼ぶ。この現象の要因は、褐鉄鉱床や沼鉄鉱床に生息する、バクテリアや藻類の作用が関与していると考えられている。勝負沼も酸化鉄で赤く、金気だった沼だったのではなかろうか。したがって、久喜市菖蒲町菖蒲に金山神社が鎮座しているのは当然といえば当然といえる。しかも、その南南東1800m、同町上大崎には風神・級長津彦(しなつひこ)を祀る大崎神社もある。

 

     

       菖蒲金山神社

     
      上大崎 大崎神社


 大芦には、金山彦も級長津彦も祀られてはいないものの、代わりと云ったらいいのか、一目連(いちもくれん)大神が祀られている、しかも、二ヶ所にである。一つは、医王寺の東200m、稲荷神社社殿脇に、もう一つは、荒川パノラマ公園東側入口付近に。

 

     

     
       稲荷神社脇の一目連大神 2008年10月撮影 

     
       荒川パノラマ公園下の一目連大神 一目にもかかわらず右から二つ目 同上

 

 荒川パノラマ公園下の、一目連大神と思われる石祠は完全に風化してしまっていて、判読不能。しかし詳細な説明を記した石碑が隣にあり、こう記されている。

 《記
 一目連大神
伊勢の桑名に、式内社で多度神社という大社がある。その境内別宮に「一目連社」も祀られ、一般には雨乞いの神として信仰されている。
 祭神は天目一箇神(あめのまひとつのかみ)、別名天津麻羅(あまつまら)
 この神は文字どおり片目であったが、『書紀』では作金者(かなだくみ)となって、大国主命に奉仕したとあり、別の書には、天照大御神の岩戸開きの際、刀や斧などを作って奉じたのがこの神だとされ、その子孫が崇神天皇の世に鏡と剣を鋳造したともある。
従って、代々鍛冶を職掌とした神という事から古来金工、鍛冶職の信仰を集めていたものだ。
 一方、鍛冶には多量の水・火・風を必要とする。そのため一目連の神はそれらの支配神とも考えられ、一眼だったこともあって台風の目の神ともみなされて、ついに雨乞いの性格を持つに至ったものだ。全国的にも数少ないこの神が二ヶ所に祀られている大芦地区は特殊な村といってよく、単に雨乞い、台風除けとして祀ったのではなく、むしろ鍛冶職のグループがあったのではないか、とも考えられる。
 なお、鍛冶職が多く住む地域には必ず薬師如来を本尊とする寺院の存在が指摘される。大芦の場合「医王寺」がそれに当たるが、鍛冶職はふいごの中の火勢をのぞくため決まって目を痛める。(薬師さまは目の神)という言い方はそうした鍛冶職人の口から広まったのではなかったろうか。
平成八年四月吉日 砂原講中 近藤桂司》

 一ヶ所、《鍛冶職はふいごの中の火勢をのぞくため》の「ふいご」を「タタラ炉」に替えれば、文句のつけようがない、見事な説明といえる。タタラという語は、もともとはフイゴのことをいった。歌舞伎に「踏鞴を踏む」という所作があるように、タタラは踏鞴と書き、送風装置としての足踏みフイゴのことを指した。そこから、タタラは拡大解釈され、砂鉄を原料とした、足踏みフイゴによる、いわゆるタタラ製鉄を指す語になったと思われる。したがって、フイゴ=タタラではあるが、フイゴはあくまでも送風装置であって、タタラ炉ではない。強いてもう一ヶ所挙げると、台風一眼という事実が判明したのはいつ頃のことなのか。人工衛星や飛行機が飛ぶ以前の昔、どのように台風が一眼であることを知り得たのか。そのあたりの事をご存知の方がいればお教えいただきたい。

 

   
    瑠璃山玉蔵院医王寺 2008年10月撮影


 閑話休題、大芦という地名について、瑠璃山医王寺の石碑には、《当山は真言宗豊山派瑠璃山玉蔵院医王寺と称し、開山は賢秀法印で、創立は不明だが、慶長十二年(一六〇七年)御検地水帳には、大芦医王寺と、記載されている。又、過去帳には、当大芦は、延元年中(一三三六年~一三四〇年)中上野の郷士、堀口貞満によって、芦原を開拓した、故に大芦と云う。》とあるが、全く説明になっていない。わたしは、大芦とは、大足、つまりダイダラボッチ伝説に因む地名だったのではないかと考えている。沼が多い湿地帯であったというのも条件的にはいい線行っている思うのだが。因みに、狭山市下奥富の大芦はダイダラボッチ由来の地名だという。また、大芦にかつてあった大樹寺には虚空蔵菩薩が祀られていたという。

 

 

 


(「大芦の神の木さま」という話、神の木に登ると川越の伊佐沼が見えたというのは何か示唆的だと思うのだが。)