カナイ塚 (上) 瓦 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

 さいたま市見沼区丸ケ崎に、金井塚氏が多く居住していることはすでに記した。その北隣の蓮田市馬込字辻谷の共同墓地の目と鼻の先に、かつて、カナイ塚という塚があった。今、共同墓地の薬師堂脇に並んでいる庚申塔はその塚に祀られていたものだという。とすると、このカナイ塚はカノエサルを略したカノエ塚が訛って、カナイ塚になったと考えるべきなのか、それとも、あくまでも金井塚、あるいは、正確を期するなら、金鋳塚と考えるべきなのか、分明ではない。

 

   
    辻谷共同墓地の庚申塔 向かって左のには享保十二年丁未 右には寛政十二庚申年の銘 2008年撮影


 2008年10月に、このカナイ塚について、共同墓地近くに住む、当時90歳のおばあちゃんに取材したことがあった。

 塚は、共同墓地の北西にあって、結構大きなものだったという。道路の拡幅工事に伴って、取り崩すこととなり、工事当日は辻谷中の人が集まったという。というのも、金井塚の「金」と、綾瀬川を隔てた向かいの小字金草原の「金」などから想像して、なにか大層なお宝が埋まっているんじゃないかという、噂があったからにほかならない。ところが、蓋を開けてみると、「ただのゴミの山だった。」と彼女は云う。わたしはゴミとか、クズとか、クソに大層な興味があるので、それがどんなゴミだったのか、訊いてみた。すると「瓦とか、なにかわからないゴミだった。」という。

 瓦で思い出されるのは、『蓮田の伝説(1)』(中里忠博著)に載っている、「鉄くずを捨てた金塚」と題する話である。

 《昔から下蓮田村の綾瀬川のあたりは、昔の人たちが砂鉄を採ったところだといわれている。西の方を流れている綾瀬川の近くに金塚とか金山といわれる土地があって、金塚の下の方にある綾瀬川の川底には、カナクソという鉄の錆びたようなものがたくさん捨てられている。
 金山耕地の下の綾瀬たんぼの土には小さなカナクソが混じっているので、畑の土を掘り下げて田んぼにしたいときなど、瓦屋さんに田んぼの土を売り出すと、安く買い叩かれたという話をよく聞かされた。》

 蓮田市蓮田の見沼代用水路に架かる橋に稲荷橋(とうかばし)があり、その北東部一帯の小字を金山(耕地)といい、更にその北の弥佐淵橋東の小字を金塚(耕地)という。ついでに云っておくと、小字金山には、蓮田で一軒だけの金井塚氏が居住している。

 また、これは後日(2009年12月)の話であるが、久喜市鷲宮(旧北葛飾郡鷲宮町)の小字金山を調べていた時のことである。

 

     
      鷲宮神社本宮旧鳥居2012年撮影

     

     鷲宮神社本宮 左 本殿 右 神崎神社


 久喜市役所鷲宮総合支所の北、葛西用水路に架かる橋に金山橋があり、その北東一帯の小字を金山といい、県営金山団地がある。もしかすると、金山は、西に1100mほど離れた鷲宮神社本宮と何か関係があるのはなかろうか、という疑問が湧いた。

 

    
     葛西用水路金山橋から  右 金山団地 2009年撮影


 そこで、金山橋の南200mにある鷲宮図書館を訪った。ところが、ここには、この地の地誌を扱った書がほとんどなく、郷土史家が記す伝説集など微塵もない。

 ならば、仕方がない、金山に近いこともあるので、何か知っている人もいるかもしれないと、直接、図書館員に小字金山について問うてみることにした。しかしながら、やはり、さっぱり要領を得ないので、もう少し具体的に、金山団地ができる前、あそこに何があったのか訊いてみた。相手の女性はこの辺りの人ではなかったようで、別の男性館員に尋ねている。すると、その男は、わたしの近くに来ると、思い出したようにこういった。

 「瓦工場がありました。そうそう、確か、2軒ありましたね、瓦屋が。なんでも、ここの粘土が瓦に適しているんだそうでした。」

 そういえば、昔の人力時代の瓦造りには、「ふね」や「たたら」などというタタラ製鉄を彷彿とさせる言葉が使われている。「ふね」とは、原料となる粘土に水をかけ、足で踏んでこねる場所をいう。「たたら」といっても、瓦造りの場合は、フイゴや製鉄炉とは違い、原料となる粘土を《幅約三十三センチ、高さ一メートル、長さ三.三メートルほどの土手状に固め》(『吉見の昔ばなし』吉見郷土史研究会)たもののことを云う。このタタラから、一枚の瓦となる粘土の板を切り出し、整形したものを窯で焼く。
https://www.stream-nomizu.jp/wp/2010/05/17/post-0-936/

 こうした用語もさることながら、金山と瓦製造との共通項は何かといえば、それは粘土と水と火だろう。タタラ炉壁は粘土で造り、鋳型の材料もまた粘土である。水は粘土を捏ねるのに必要であり、タタラ製鉄では、鉄穴流しには大量の水を使用し、小鍛冶においても、焼き入れなどに、水は必須のアイテムである。そして、瓦もまた、タタラ製鉄と同様に、木炭の火を使用して、焼成したのだろう。

 古河市牧野地(東隣は鴻巣)から発掘された平安期の製鉄・鋳造遺跡である、川戸台遺跡からは、粘土採掘坑が発見され、特に鋳型の出土量は565.981kgもあったという。

 

    

    川戸台遺跡発掘現場 奥の土手は渡良瀬川 2010年3月撮影

    
    川戸台遺跡粘土採掘坑 同上


 なぜ粘土を土手状に固めたものをタタラと称するのかは不明だが、想像するに、タタラ炉壁の製作方法・形状が似ているからなのではなかろうか。ということは、もしかすると、瓦造りというのは、タタラ製鉄から分離・派生した技術だったのではあるまいか。

 瓦製造技術は、崇峻天皇のとき、百済国からもたらされたという。

  『日本書紀』「崇峻天皇」元年の記事に、この年、百済国から、寺工(てらたくみ)・鑪盤博士(ろばんのはかせ)・瓦博士(かはらのはかせ)・畫工(ゑかき)が献上されたとある。岩波の日本古典文学大系『日本書紀 下』の「瓦博士」の頭注には《当時は宮殿なども板葺きが多く、瓦造りは大陸伝来の特殊技術に属した。》とあり、また、「鑪盤博士」のそれには、《仏塔の頂にあって相輪の基部をなす部分。ここの鑪盤は相輪全体をさす。博士はその鋳造技術者。》とある。瓦製造技術者とともに、鋳造技術者も派遣されているのは興味深い。もちろん彼らは、日本最初の寺院である、飛鳥寺(法興寺)建設のために派遣された技術者であるが、当時、番匠と呼ばれた大工が、その道具を自ら造っていた鍛冶師でもあったように、瓦博士もまた鍛冶技術を自家薬籠中ものとしていたのではなかろうか。というよりも、ひるがえって、鍛冶師は鋳型を製造する技術を持っていたわけだから、瓦も容易に焼けたにちがいない。その技術を突き詰めていった結果として、瓦博士になったのではなかろうか。

 とすると、鍛冶と瓦製造とが並行的に行われていた可能性もあるのではなかろうか。つまり、瓦製造地の多くはタタラ製鉄地にある、と考えられないだろうか。

 そこで、日本三大瓦――石州瓦(島根県石見地方)・淡路瓦(兵庫県淡路島)・三州瓦(愛知県三河地方)という瓦生産地を調べてみた。

 石見といえば、銀山のイメージが強いが、実は出雲と並んでタタラ製鉄遺跡が多いことでも知られ、邑智郡邑南町には500か所以上の製鉄遺跡が見つかっている。淡路島といえば、タマネギだけではなく、近年、発見された松帆銅鐸でも有名であるが、弥生後期の、つまり、日本で最も古いとされる製鉄遺跡である五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡や舟木遺跡がある。三河の瓦生産地というと、高浜市・碧南市・半田市を指すようである。残念ながら、愛知県には、春日井市と小牧市以外には、今のところ、製鉄遺跡は発見されていないという。ただ地名から推すと、半田市の半田は、おそらく、埴田(はにた)の訛りと思われ、鉄分を多く含む地を指すと考えられる。同市池田町にある半田運動公園の西に金山町があるから、この辺りから製鉄遺跡が出ることを期待しよう。