鶴瓶の家族に乾杯 中 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

 わたしがどうしても納得できないのは、加納という地名の解釈についてである。韮塚一三郎が、『埼玉県地名誌 名義の研究』のなかで、《加納は中世荘園である深井荘の追加開墾地であることから生じた地名である。》と明快に断言できる根拠は一体なんなのかといえば、それはおそらく、柳田國男の発言にあるのではなかろうか。韮塚は『埼玉県伝説集成』(北辰図書)も上梓しているが、ここでも、柳田の「片目の魚」「片葉の芦」などの伝説の解釈を盲目的に踏襲している。

 

(ちなみに、吉見町の大字、江綱の解釈と比較してみればよくわかる。柳田のお墨付きの有ると無しとでは、こうも違うのである。https://ameblo.jp/tiisakobe-sugaru/entry-12603191525.html

 喜多方市熱塩加納町(熱塩村と加納村が合併)の加納について、『福島大百科事典』(福島民報社)が≪昔、加納荘と呼ばれた。土地を新しく開拓したとき年貢に加えられるという意味で加納といったという。≫と記すように、せいぜい伝聞推定くらいにすべきだったのではなかろうか。事実、多くの地名解説書や地誌は伝聞推定様式で書いている。つまり、加納が追加開墾地であるとする明確な証拠は何もないのである。

 柳田は、別府とは別符のことで、太政官が発行する、荘園の追加開墾特許状を意味し、それが更に、追加開墾地を指す言葉になり、関東では、これを別所といい、別納や加納という地名も同じ意味である、という。(「時代ト農政」「地名の研究」「毛坊主考」)

 確かに、別所も加納も訓、すなわち和語ではなく、音、つまり漢語である。地名は基本訓読みである。古くからある音読み地名(一条・二条・大宰府など)は官によって付けられたと考えていいかもしれない。わたしも、別所と加納は少なからず関係があると考えるが、柳田のいう意味ではない。わたしは、加納のすべてとはいわないが、カノウという地名に、加納という字を当てはめたがために誤解を生じたケースがあるのではないか、と考えるのである。例えば、カノウに金生(かねふ→かなふ→かのう)、あるいは叶、または狩野や金尾の字を当てれば、これは訓読みである。

 さて、別府の解釈はいいとして、別所については、いまだ解決を見ていない。

 『地名用語語源辞典』(楠原 佑介・溝手 理太郎 東京堂出版)から、代表的な別所の解釈を以下に挙げておく。

1、古代、蝦夷の虜囚を各地に移住させた所。
2、本寺とは別に、修行僧が移り住んだところ。別院。
3、本所に対し、別に立てられた所領。別名。
4、墓地。

 1は、被差別部落などの研究で知られる菊池山哉(さんさい)が唱えた説で、これをさらに発展させて、蝦夷を移住させ、そこで金属精錬作業に従事させていた所、としたのが柴田弘武である。

 柴田は、その根拠として、概ね以下のように述べている。(『風と火の古代史』 彩流社)

 『和名抄』に載る俘囚移配地である俘囚郷や夷俘郷周辺が産鉄(銅)地であること。大和石上神宮に残されていた刀剣類に《常陸国俘囚臣川上部首厳美彦、陸奥国俘囚臣河上首嘉久留、同河上首達久留、陸奥国月山住俘囚臣宇久留、同賀久留、同俘囚臣首多久留》の銘があり、俘囚のなかに刀鍛冶がいたこと。古備前刀の原形は蝦夷の蕨手刀にあり、なぜ備前で始まったかといえば、坂上田村麻呂と和気清麻呂が備前出身の報恩大師の弟子延鎮に俘囚鍛冶を招来させ、造らせたことによるということ。

 また、茂木和平はこう述べている。(『埼玉苗字辞典』)

 《朝鮮では、州・郡・県・村は良民による自然部落によって形成されたもので、それが基準となって行政区画に編入された。一方、郷・所・部曲(かきべ)は人為的に設けられた特殊区画であって、国家または王侯貴族の為に農業・手工業などの産業に従事していた。別所は桓武天皇の頃に蝦夷の俘囚の移配地より名付けられたと言われるが、此の説は誤りである。是より遥か古代に別所村及びその近村には古墳が多くあり、古墳築造に従事した土師・石工・鍛冶等の職業集団の居住地を、良民である本村の人々が別所と呼んだ。》

 茂木は、俘囚ではなく、特殊技術を持った職能集団の居住区だという。

 柴田説、茂木説、いずれにしても、別所は、製鉄(銅)、及び鉄器の生産とかかわりのある地ということになる。わたしも、また、そう考える。わたしは、特に、別所を目的地として探索しているわけではなく、寺社、地名、伝説などから鉄が生産されていたのではないかと思われる地を訪っているのだが、不思議と、別所に遭遇する機会が多い。そういう経験から、わたしも別所が金属精錬と関係があるのではないかと考えるに至った次第である。

 武蔵国はことに別所が多く、わたしが訪れた所すべてについて言及する余裕はないので、桶川市の加納と関係がある、二か所のみについて触れておくことにする。

 もっとも、これとは別に、すでに一か所は、簡単ではあるが、言及済みであった。、https://ameblo.jp/tiisakobe-sugaru/entry-12593512921.html?frm=themeに記した逆川流域の鍛冶伝承地、さいたま市北区宮原町、同奈良町の北隣が別所町で、ここは大谷領別所村といった。

 さて、北足立郡伊奈町小室の小字に別所がある。ここは小室郷別所村といった。別所の西1700m、同字大山の原市沼川沿いに、県内最大規模とされる大山製鉄遺跡がある。ここは県立がんセンター研究棟敷地内で、昔からカナクソ山といわれ、製鉄関連遺跡の存在が予測されていたところであった。発掘調査の結果、台地の西側斜面から平安期の製鉄炉9基と多量の鉄滓が、台地上からは多数の炭焼窯と小鍛冶関係の住居跡が発見され、平安期の集落は製鉄に従事した人々の居住地であることが判明した。また獣足の鋳型が出土していることから、鋳造も行われていたことがわかっている。




                 大山製鉄遺跡西側斜面

 

 (この他に、別所の北東2700m、元荒川沿いの蓮田市椿山【ツバキ地名は鉄と関係がある】の市役所付近からも製鉄遺跡が出ているし、別所の南1500m、原市沼川と綾瀬川とが合流し、見沼代用水が交錯するところ、上尾市瓦葺(かわらぶき)の小字に梶ヶ谷戸があり、これは鍛冶ヶ谷戸と、瓦葺も河原吹き、すなわちノダタラのこと、と考えられる。その東、蓮田市との境を流れる綾瀬川には多量の鉄滓が沈んでいるという伝承があり、同市蓮田には小字金山がある。)

 大山製鉄遺跡の南西900m、上尾市と伊奈町小室との境界に原市沼がある。

 


               原市沼 ニューシャトルから撮影


 江戸後期に成った『新編武蔵風土記稿』≪原市村≫の項に、≪沼 村の東にあり、原市沼と呼ぶ。沼の向は丸山村の伊奈熊蔵が陣屋なり。沼の廣さ東西百間、南北の徑六百あり。其末綾瀬川に沃げり。≫とはあるものの、現在、原市沼は、乾燥化が進み、葦の繁茂する湿地帯となり、そのなかを原市沼川が細々と流れているといった状態である。
 


原市沼 高架は上越・東北新幹線 沼上で分岐する 奥の森に伊奈氏館跡がある

 

 伊奈熊蔵とは、徳川家康関東入国に際し、直轄領支配のために置かれた代官頭の一人で、小室村に館を構えた、伊奈備前守忠次のことである。この時、八王子の代官頭を務めたのが、後に、石見銀山や土肥・佐渡金山などで活躍した大久保長安である。


 原市沼は、一帯のいたる所から金気だった赤い水が流れ出しており、葦原を掘れば高師小僧がザックザックと音を立てて出現するのではないかと想像されるほどである。おそらく、大山では、原市沼川の砂鉄を原料として、タタラ製鉄が行われていたのであろうと推測される。


 

 原市沼川を遡上すると、上尾市菅谷に至る。菅谷は出雲の菅谷タタラ(雲南市吉田町)や比企郡嵐山町菅谷の都幾川沿いにある、畠山重忠の館跡を想起させる。スガはスカ(須加・須賀)と呼ばれる砂鉄採取地を指す。菅谷の北が桶川市倉田で、――ここに菅谷と接して大之池(おおのじ)という小字があることを記憶に留めておく――境界線の北200mに虚空蔵菩薩を本尊とする明星院がある。原市沼付近に、「原市沼を愛する会」によって建てられた「原市沼川水源略図」には、《原市沼の水源は二市一町(上尾・桶川・伊奈)の境界線付近のU字溝に湧き出た水が水源です。田んぼを整理する前は上尾市菅谷1344畑さん方の池が水源でした。是非現地を見てください。》とあるが、明星院付近から流れ出しているようにも見えなくはない。(ここに黒須氏が居住しているのも大変興味深い。)

 

        1960年代の菅谷・倉田付近 国土地理院地図より転載