100年以上も前にジングムング・フロイトが「無意識論」を提唱して以来、

未だに精神学の基本として存在している。

「未だ」は、それもそのはず、元々仏教にあったものだからだ。


フロイトは人に意識と無意識が存在し、

意識はほんの10パーセントで、その中に自我と五感があり、

あとは氷山のように90パーセントが海中に潜って見えないような存在、

普段は意識にない自己の無意識であると唱えた。


このフロイトの前に200人くらいは提唱していた者がいたというが、


実はそれより二千年前の仏教に、

九識論というのがあるのだ。


五識までは五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)

六識が自我

七識が「末那識(マナシキ)」と言い、意識

八識が「阿頼耶識(アラヤシキ)」と言い、無意識

九識が「阿摩羅識(アマラシキ)」と言い、宇宙的共通意識

としたものである。


お坊さんの修行、只者ではない。

極限を求めて変性意識に入るのだ。

八識「阿頼耶識(アラヤシキ)」に入り

九識「阿摩羅識(アマラシキ)」を体感するのである。


フロイトの弟子、カール・ユングは、

無意識の中には、個人的無意識と普遍的無意識があると提唱した。


普遍的無意識とは共通意識ともいわれ、

いわゆる群れ意識のようなものであり、地元意識や国家意識のようなもの。


オリンピックで日本人が日本を応援したくなるようなものであり、

宗教などもこれにあたる。


現代科学ではクオリア理論など、様々な理論が専門的に使われているが、

未だにこの基本がある。

流石仏教だ。


例えば催眠を行うと、やはりこの理論が当てはまる。

瞑想や禅がそうだからだ。


武士が強さを求めそれらを探求したのは摂理の流れか


真の強さは意識と無意識の中にある。

当たり前だ、人間なのだから。