この歳になると、自分がどういう気質なのかが解るものです。
普段、穏やかだが決して動じず、正義感が強く、信念を曲げない。
正す事に狂愚の性格をもち、慌てず判断を静に置く。
正義というバカになる。
多くの学者さんが言うように、人の性格の基礎は4、5歳までに作られるといいます。
私の出自は今まであえて公にすることもないと控えていたのですが、
実はこの期間、特殊な環境にありました。
それは近い親族しか知らないことです。
私が物心ついた頃、それが当たり前の如く母方祖母の隠居宅と、
父の家(本来の実家)とを、毎週バスで一時間かけて通っていました。
春夏冬などの各長期休みも、ずうっと祖母の家で過ごしていたのです。
明治生まれの祖母は当時、三人の子を育て上げ、一人で隠居生活をしていました。
大変厳しくもあり、優しい人でもありました。
私はここで祖母の英才教育を受けていたのです。
高祖母(ひいひいおばあちゃん)から聞いた、裃(かみしも)を着て登城していた旦那様の話しや所作、天皇陛下崇拝、親米、親台湾、反共。
(当時の保守派の典型)
「おまえは神の子」という口癖。
「性根が腐るぞ」「灸を据えるぞ」という叱咤の数々。
正座の姿勢や正義感のこともよく言われ、本などもその姿勢で読まされていた記憶が蘇ります。
一方で、大好物のオハギを作ってくれたり、サイクリング自転車を買ってくれたり。
両親が高齢の時の子だったため、
祖母も私を大変可愛がったといいます。
父の沈黙と本物のサムライ
一方、父は多くを語らず、常に優しい人でした。
しかしその背中には、大きな世界と壮絶な人生を経験した重みがあり、プライドを秘めながらも、それをひけらかさない人格者でした。
私は父こそが「本物のサムライだった」と改めて思うのです。
父が出自や環境について頑なに口を閉ざしていたのは、心に秘めた悔しさと誇りであり、かつての栄華と、そこからの挫折、そして筆舌に尽くしがたい苦労の跡でした。
先祖が姫路藩の剣術の師範であったとか、京都ではかなり裕福な家だったこと。
大正時代、神田猿楽町(現・神保町)で歯科医院兼邸宅だった家の子供というステータス。
次男ながらも、相当なお坊っちゃまだったことでしょう。
長男である父の兄が京都大学に飛び級で入った神童だったことで、父もそれを目指していたこと。
昭和に入り、祖父、長男、祖母と立て続けに結核で亡くしたこと等、多くを語らず、その後、時代の流れに翻弄される人生を歩んだのです。
その出自の一族を、父は私達に多くを語りませんでした。
「胸中の矜持」を実践した人です。
私は父の意向をくみ、出しゃばることはすまいと、そのままにしておく姿勢を習いました。
祖母が抱いていた信念
こちらも侍の家系としての矜持を胸に生きた祖母は、二人の男子(母方の伯父)を立派に育て上げました。
一人は東京大学(もう一人も国立大学)で学問を修め、江田島の海軍兵学校を卒業し海軍士官の道を歩み、後に製薬会社を起業した息子の輝かしい足跡こそが、祖母が生涯抱き続けた揺るぎない誇りであったのでしょう。
ある日、密かに隠し持っていた、伯父の旧海軍士官だけが持てるサーベルを、一度だけ見せてくれたことがありました。
その凛々しさに感激している私を見て、微笑む得意満面の祖母の顔は忘れられません。
祖母は、世間からも特別な人でした。
かなり傾倒していた超保守系の新興宗教の熱烈なる信者であり、それが谷口雅春氏の「生長の家」だったというのは述べた事があります。
幼少にして私は祖母に谷口氏の講演にまで連れて行かれ、直接氏と会話した記憶もあります。
保守派の宗教、武士道的所作法。
私は3〜7歳ころまで、英才教育を受けていたのです。
葛藤と自然への逃避
幼いながら、いつからか両家が衝突している事を知ります。
「仲良くしてほしい」という願いは叶わず、理不尽な言い争いや怒鳴り声が飛び交う環境は、幼い私や多感な時期の兄姉に多大な影響を与えました。
私は小さな反発をして、祖母宅の雑音から逃れるように外へ出かけ、遅くまで帰らなくなりました。
野山を駆け回り、穴を掘り、木の上に秘密基地を作る。チャンバラごっこや野良犬や蛇などとの対峙――。
自然の中だけが、全てから解放される自由な場所でした。
真っ黒に日焼けして遊び通したこの経験が、私の運動神経の礎となったのです。
ただし、勉学の基礎を無くす時期でもありました。
兄と姉の背中
歳は離れていましたが、兄も私と同じく家に寄り付かず、山で遊び回っていました。
しかし、その兄が後に一念発起し、猛勉強の末に隣の県庁へ入り、管理職まで登り詰めました。
一心不乱に机に齧り付いて勉強する兄の姿は、私の脳裏に強烈に焼き付き、「やれば出来る」という精神は、後の私の格闘技・武道人生の起爆剤となったのです。
また、姉はカトリックに入信し、寮のある看護学校へ進んで家を離れました。
あの過酷な環境で、二人とも本当によく頑張ったと思います。
父の苦労
神田の家が崩壊した後、まだ若かった父は三男と満州に渡りました。
父も優秀で、当時としての国家プロジェクト「満州鉄道」に事務方で入社する超エリートでした。
ところが一変します。
終戦一年前に陸軍へ二等兵として徴集されたのです。
爆弾を背負い塹壕に潜んで、敵が来たら自爆特攻する経験もします(来たのが味方の車列で死に損なう)。
結局、シベリアに2年半抑留され日本へ帰り、妻の実家である下関に移り住みましたが、その妻を亡くします。
後に再婚したのが、私の母になるのでした。
今回色々と調べていくうちに、父と祖母の偉大さとルサンチマンに、驚きを通り越して、奇跡的な感傷に包まれています。
両家がどこまでエリートだったのかは、ご迷惑をかけるかもしれないのでこれ以上は言えません。
刻まれていた幼少期の記憶
そうだったのかという気付きもありますが、あらためて私を造ってくれたのだと、すべての人に感謝の念を送る次第です。
祖母はいつも太陽を拝んでいました。
仏壇や神棚とか特別な物は祀ってなかったと今回微かに思い出し、偶像を持たないプロテスタントのようだと感じました。
そこで私はアメリカの福音派と、当時の生長の家の類似点を調べてみたのです。
何と教義内容が非常に似ていて、保守的な価値観などはそのままだと言えるほどでした。
その後の「生長の家」は教祖の代が変わり教義が一変したようですが、全教徒の思想までが変わるはずはないと思い、分裂したのではと確信した私は更に探りました。
すると、初代の思想に従う多くの人が「日本会議」に流れたと知り愕然としたのです。
三つ子の魂百までと言いますが、私が祖母から影響を受けていた時期は、ちょうど二歳位から七歳位まででした。
それからは実家の方が多くなり、右も左もないバランスの取れた、元華麗なる一族?の父の元で、強い兄と優しい姉に囲まれ、プロレスラーに憧れはじめていたのです。
実際に夢は実現し、タイガーマスクにもならせていただき、総合格闘技も創らせてもらいました。
この歳になって驚いたというのは、知らず知らずのうちに私の火種は燻っていたという事です。
遅ればせながら三十代を超え、このままでは日本がダメになると思い、かねてより武道に邁進しようと研究した一環に「日本会議」があったからです。
しかし生長の家との関係は今の今まで何も知りませんでしたし、祖母の事も天皇陛下を崇拝していたなと思っていた程度でした。
幼い頃、祖母から受けた、厳しいながらも「神の子」(当時の生長の家の教義)としての教えや、侍の家という精神規律の躾が合わさり、私の基盤になっていたのでしょう。
幸せの価値観はともかく、そういう信念を持つ多くの母親がいた日本は強かったでしょうね。
これからの日本に必要なのは大人になった明治の精神かも知れません。
一方、父親は華麗は華麗な一族だったという誇りを見せない人でしたが、
「己に勝て」とよく言う人でした。
栄華や苦労を惜しまず、前を向く不動の精神こそが自分に勝つこと。
その背中からは、そんな無言の魂を感じてなりませんでした。
そんな父の本心を汲めていた私は、反対に「よし!やってやろうじゃないか」と密かに誓っていたのです。
それが私の本当の「レスラーになる!」「格闘技を創る!」「武道を創る!」という動機だったのです。
この頃、高校で柔道部だった九つ違いの兄と、腕相撲や相撲をして完璧に負けていましたが、それでも「お前強いぞ」という兄の褒め言葉に乗せられ、有頂天になり、馬鹿な私はプロレスに走ります。
ドリー・ファンク、ミル・マスカラス、ブルーノ・サンマルチノ、アントニオ猪木、カール・ゴッチ。
夢は広がる一方で、完全なプロレス信者になって行きました。
プロレスの信者から、徐々にプロレスラーになるという気持ちになっていくのでした。
才能を生かし、プロレスラーになって佐山家を再興させようと、本気で考えていました。
私が飛びついたのは、猪木さんが立ち上げた新日本プロレスです。
中でも「本物」というフレーズと「プロレスに市民権を」という輝かしい言葉でした。
入門して丸1年間、市民権をという目標を胸に抱き、新弟子として育ちますが、まだその文化に染まりきらない、優秀な若手選手だったと思います。
なおその後の佐山家は、兄が大人の対応を取り打ち解けあっていました。