タイガーマスクとしてのイメージからか、これまであまり皆様に知らせてこなかったのですが、今回は敢えて、なぜ私が「武道」を目指すのか、その精神性のルーツを書き記したいと思います。
私は、両親がかなり高齢になってからの子でした。
幼い頃、特殊な家庭事情があり、何かに抗うようにそこから逃れ、一人自然の中で遊んでばかりいました。
兄弟は、年の離れた強い兄(後の私に強い影響を与えられた)と優しい姉がいます。
母親は世間をあまり知らない箱入り娘でしたが、
兄弟のうち私一人が、母方の祖母の家と実家で半分ずつの生活を強いられていたのです(祖母の家は日本海側、実家は反対側の関門海峡側でした)。
幼年期には母に連れられバスで、小学三、四年生頃からは一人自転車に乗って一時間。
山道を越えて実家のある小学校に通う日々でした。
その祖母は、強烈な保守系新興宗教団体の信者でした。
天皇陛下を崇拝し、太陽にお祈りを捧げ、「お前は神の子だ」と説く人でした。
幼いながらに宗教団体の会合にまで連れて行かれ、子供は私一人だったのを覚えています。
また、江戸時代に高祖父が裃(かみしも)を着て登城していた侍だった話や、
学生運動をテレビで見ながら憤慨していたことなど、保守的な社会正義に基づく強い信念を持つ人でした。
私は三〜五六歳くらいまで強烈な教育を受けます。
宗教や教祖様、天皇陛下や乃木大将の話をよく聞かされ、正座に始まり、礼儀作法や姿勢など、まさに「侍教育」とも言える厳しい教育でした。
「やいとう(灸)据えるぞ!」という殺し文句(笑)で諭されたことは、私の骨身に刻まれています。
祖母には二人の息子(私にとっての叔父)がいました。
一人は海軍下士官、もう一人は戦闘機乗りとして大戦に従軍していたことを誇りに思い、叔父の海軍サーベルを密かに持っていたのです。
私を叔父たちのような立派な人間にしようとしたのでしょう。
祖母は「厳しい」ことで有名な人だったようですが、後年私が反抗して遊んでばかりいるのを心配したのか、次第に歩み寄り、特別な愛情を注いでくれるようになりました。
一方、父は先の大戦でシベリアに二年半抑留され戻ってきた大変な苦労人で、そういった宗教には全く無縁、迷信の類も信じない人でした。
この時代の多くの復員兵は、敗戦の惨状を味わい「神などいない」と悟った者が多かったと言います。
しかし、父から天皇の悪口を聞いたことは一度もありません。
柔道・剣道の経験者で、いつも優しく、右も左も超越したバランス感覚を持つ人でした。
東京に来た際、靖国神社に連れて行かれたこともありますが、父は戦争の話をあまりしませんでした。
多くの復員兵が体験を語りたがらないと言いますが、父もそうだったのでしょう。
ソフトな中にも、隠れた「剛(正義感)」を持つ人で、私は幼い頃から、父方の先祖が剣術の師範だったと聞かされて育ちました。
その父の影響もあり、宗教教育には反発心がありましたが、「侍」という言葉には誇りを持ちました。
「神の子」という言葉も、リアリストである父の影響からか、素直には受け入れられませんでした。
私は祖母の家からも実家からも逃げ出し、日が暮れるまで遊び回っていました。
父は、私が宗教に染まるのを案じたのか、あるいは放蕩ぶりに手を焼いたのか、小学二年生の私に柔道を強制します。
相反する二つの家庭環境の中で、反発しながらも自立しようとしたエネルギーが、私をスポーツへと向かわせたのでしょう。
小学五年生の時、全スポーツ競技のテストがあったのですが、私は全競技で代表選手に選ばれたのでした。
父の家系は、元々京都で栄えていた家で、祖父の代からは東京の神田で歯科医を営んでいました。
父のこだわりか、私の戸籍はずっと神田の住所になっていました。
後年、その場所を訪ねた父が「共産党の事務所になっていた」とぼやいていたのを思い出します。
父の人生もまた過酷でした。
少年期に両親(私の祖父母)を相次いで結核で亡くし、京都大学に飛び級で入学した優秀な兄までもが在学中に結核で急逝。
主要家族を一度に失い、神田の家も閉ざされました。
折悪く関東大震災等の影響でどこも厳しく、弟と二人満州へ渡り奉天中学に学びます。
その後満州鉄道の事務方に就くことができましたが、当時の満鉄は国家事業であり入社は大変厳しく、父も優秀だったのでしょう(その血は私には全く引き継がれていませんが(笑))。
しかし戦争末期、一年ほど兵隊に組み込まれました。
その時、父は特攻(対戦車肉薄攻撃)も経験しています。
塹壕を掘って隠れ、敵の戦車に突っ込もうとしたところ、やってきたのが味方の隊列だったという話です。
その後、二年半のシベリア抑留生活を経て、無事帰国を果たし下関に腰を据えました。
宗教心と無神論、二つの狭間で育った私に宿ったのは、自由な遊び心と「なぜ」という探究心でした。
それでも、私の根底には常に「サムライのプライド」がありました。
やがてその矜持は「プロレスラー」という夢へと移ります。
祖母が亡くなった時、足元で手を合わせ「メキシコに行き、絶対に世界チャンピオンになる」と誓いました。
実際、二十一歳でメキシコで世界王者になった時は、「運命とは何なのだろう」と考えさせられました。
私が今、武道を目指す理由。それは、この複雑な血脈と歴史の中に刻まれた「正義」と「精神性」を、自分なりの形で見出すための旅なのです。
旅はまだまだ続きます。
思春期真っ盛りの私に突然訪れたのは、またしても大変厳しい規律環境でした。
プロを目指すにはまず基本からと、レスリング部のある高校を選びました。
県立高校でしたが、スポーツ校特有の軍隊色の濃い(挨拶は敬礼)異様な校風の中で、より厳しい寮生活という環境に身を置きました。
厳しい練習の後、ふらふらになって寮の掃除を終え、先輩たちの使い走りをこなし、風呂に入って消灯。
時折、午前二時頃に一年生が呼び出され、二年生による「締めの会」が催されていました。
次に育った新日本プロレス。
規律の厳しさは高校時代に比べれば大人の対応でしたが、それでも若手への規律は一般社会より遥かに厳しいものでした(当時の私は高校時代に比べれば何でもないと感じ、練習に集中できました)。
カール・ゴッチとの出会い
決定的だったのは、私がカール・ゴッチさんに師事してからです。
大人の階段を登る頃の私に、師の影響力は絶大でした。
ゴッチの弟子になること自体が一目置かれると、誰もが憧れていましたが、単に練習や技術だけではありません。師の凄さはその「精神性」にありました。
身だしなみやマナー、礼儀、正義心、自己犠牲といったことを、武勇伝と共に、まるで幼い頃に祖母から教え込まれたかのように説かれました。
本人は「自分は一直線で頑固で石頭だ」ということを繰り返し強調し、絶対に筋を曲げないことを何度も叩き込む人です。武士道でいう「義」と「節」を繰り返し説かれました。
マンツーマンで毎日何度も聞かされるその教えは、武士の教育よりも強烈でした。
最初は「今の若い者は……」といった類の話かと思ったのですが、師の話はなぜか幼い頃の記憶を呼び起こし、そんな甘い考えではいけないと痛いほど心に響くのです。
今でいうグローバルと反グローバル、リベラルとコンサーバティブ(保守)の違いといったところでしょうか。
ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)などという言葉を聞けば、師は黙っていなかったでしょう。
師は街で義に反することを見れば、率先して注意を促す人でした。
大柄な外国人が片言の日本語で注意するのですから、皆びっくりです。
私が英語を話せるようになり、タイガーマスクになった後も、語り合う機会は増えていきました。
『葉隠』で田代陣基が山本常朝から小言のように武士のあり方を語り聞かされていたように、顔を合わせ、じっと目を逸らさず、時には一日中続けられるのですから、たまったものではありません。
時々、話に疲れていい加減な頷きをしてしまうと、
「今、俺が何を言ったか言ってみろ」と厳しいツッコミが入ります。
100%の集中を求める師の教えには、妥協がありませんでした。
このコミュニケーションが終わる頃には、いつも私の目の下にくまができていたそうです。
私は内に潜んだ狂愚性はありましたが、幼い頃から警察官に憧れていたくらいで、不良ではありませんでした。
礼儀や態度は新日本で教育されていましたが、思想の教育まで受けるとは思ってもみませんでした。
師のレスリング道には、『葉隠』の「武士道といふは死ぬ事と見付たり」という言葉のごとき、秩序への強い信念があったのです。
それが、皆様が不思議がる私のパーソナリティーに繋がっています。
私はメキシコやイギリス、ニューヨークへの遠征時も、師の教育や日本人としての誇りが心の中に生き続けました。
もちろん新日本プロレスの中でもです。
おかげでどんな場面でも自尊心を意識するようになり、「魂では絶対に負けない」という気概を持っていました。
これはアドバイスでもありますが、「誇り」は見せびらかすものではありません。
自尊心を魂に秘めるのです。相手はその秘めたるあなたの自然な「態(ふるまい)」を感じ取るのです。これこそが「信・義・態」を造る極意です。
海外修行時代、メインイベントを務めさせていただいたせいか、若いながらも皆に敬意を持って接してもらい、弱小ながらもリーダーシップを取らせていただきました。
普段の生活においても差別を受けたことはありません。
その魂が「鎧」となって、ニュートラルな自分でいられたのだと思います。