気まずさに何も言えぬまま、二人一寸距離をあけて並んで気だるくトボトボ歩いていた。



師走の黄昏を過ぎた頃、商店のカラフルなイルミネーションや明るいLEDの街灯に照らされた薄暮の街は酷く賑やかで騒々しく、行き交う人々の流れに、ともすれば二人離ればなれになりそうだった。
向かい風は酷く冷たくて、二人共に無言のまま俯いて駅へ向かう道をただ歩いていた。

彼女が唐突に別れを告げてきた。
何時もの安いファミリーレストランで何時もの様に二人で安いデキャンタワインを分け合い飲んでいた時だった。
頭が言葉を処理できぬまま、プラスチックのワイングラスを持つ手が固まってしまった。
え、何故?
男が尋ねても、彼女は浮かぬ表情で目を逸らしたまま、うん、まぁね、等と曖昧な生返事を繰り返すばかりだった。
男は酷く動揺した。
黙る彼女を前に、男の顔から背中から季節外れの嫌な汗が湧いて出た。
あまりの動揺に、男は窓の外を眺めて、ため息というにはやや荒い呼吸を徒に繰り返すより他になかった。
窓の外、黄昏の通りを車のヘッドライトが流れてゆく。軽快なBGMが店内に流れている。子供を連れた母親達がきゃっきゃっとはしゃいでいる。
目の前には、昨日と違う彼女がいる。彼女の声は疲れていて、感情のない冷たい声だった。強張った表情の中にある愁いを湛えた瞳は、男の知っている彼女のものではなかった。

少しく落ち着いて、男は心を整理しようと努めた。困惑しつつも、心は酷く寂しかった。
別れたくない。しかし、向こうが別れたいと言うのに、こちらが、いや駄目だとは言えないではないか。意味がない。
眼前の彼女は石のように固く俯いている。
不意に言いたい言葉が無数に湧き出して、だけれども、その一つ一つはとりとめもなく、整理不能の混沌が形にならぬまま男をぎゅっと押し黙らせてしまっていた。
互いに無言のまま、食べかけのパスタが冷めてゆく。
通路を挟んだテーブルの母親達がどっと笑う。
沈黙が、あまりにも重い。

踏切に差し掛かり、カンカンと遮断機の警鐘が鳴り始めた。
カンカンカンカン。
忙しなく鳴り続ける警鐘の音が男の心を更に固く強張らせた。
何も言葉が出てこない。

遮断機の降りてこようとする刹那、彼女はパッと走りだし、一気に踏切の対岸に渡ってしまった。

踏切の此方と向こう。僅かな、けれども遠いその距離が、二人を果てしなく離れさせてしまった。
危うく途切れそうな二人は互いを見つめる視線で辛うじて繋がっている。
カンカンカンカン。
冷たい風に震えながら、無言のまま、踏切の赤い点滅に照らされた彼女と悲しく見つめあっていた。
何か言いたい。
けれども何を言えば良いのか解らない。
苦しい。男の心は今にも張り裂けそうであった。
電車が来る。
その直前、彼女は潤んだ瞳を大きく見開いて何かを言おうとしていた。
次の瞬間、遮断機の警鐘と流れるように続く電車の轟音が、男と彼女を互いに繋ぐ声を、か細く二人を繋ぐ糸を呆気なく無残にひき裂いた。

電車が去ったあと、踏切の遮断機がゆっくり上昇し始める。
踏切を渡る数多の人々の群れのなかで、離ればなれ、力なく佇む一人の男と一人の女がいた。
疲れはてた虚ろな視線を数度交わして、どちらからでもなく俯きがちに背を向けて、互いの家路へとのろのろと歩き出すしか他になかった。

一人暮らしの狭く汚いアパートへの帰り道、自然と涙が溢れ出て止まらなかった。
セーターの袖がびっしょりになるまで目を拭っても、まだまだ涙は果てしなく湧いて出てきた。
男は人目も憚らず、涙の頬を伝うにまかせるまま、夜空も車も人も万華鏡のように眩く滲み歪んだ師走の街を歩き続けた。
行き交う人々はみな男を一瞥した。男は慌ただしく賑やかなその空間に於いて確かに異質な存在であった。なかには怪訝そうに眉をひそめる者もいた。苦笑する者もいた。指差して笑う女子学生達もあった。
親切な老婆は男の背中を擦り、大丈夫かと訊ねてくれた。
男は嗚咽のあまりに老婆へ応じる言葉すら形にならず、ただペコペコと頭を下げて、よろめくようにその場を去ったのだった。

どうやってアパートに帰りついたのだろうか?男は部屋に明かりも点けず、敷きっぱなしの冷たい布団に潜り込み、一寸してからガバッと起き上がるやいなや、テーブルの上に置いてある安いウイスキーの瓶を引ったくるように掴んでそのままグイグイと煽った。口の端からこぼれたウイスキーを荒々しく袖で拭って、酒臭いため息をついた。
今日の事は何かの間違いかもしれない。或いはたまたま彼女の機嫌が酷く悪かったのかもしれない。
男は酒の勢いも借りて、電話をかけてみた。
彼女は電話に出てはくれなかった。
メールも送ってみた。
送信の音が鳴ったきり静まり返った部屋には、ひたすらに乾燥した冷たい現実のみが残されていた。

突然放り込まれた断絶に、整理しきれぬ感情が渦を巻いていた。混沌と失望と絶望と、未練と憤りと孤独とやりきれない悲しみと。
いくら飲んでも酔えなかった。

気が付けば男のセーターは、涙と口の端からこぼれたウイスキーでびしょ濡れになっていたが、それを意に介する気力は既に損なわれていた。
空瓶を握り締めたまま、やがて昏睡に近い眠りが男を深い闇へと沈澱させていったのだった。


それきり彼女とは一切の連絡が取れなくなった。
幾日かの間、男は誰とも口をきかぬまま、寝ては醒め、また酒を煽り吐きそうになると横になる日々を繰り返した。


数日後、フラフラと学内を歩く男の姿は、まるで魂を失ったもののようであった。
ひょっとすると、いや、しなくても、今日の今、彼女も同じ構内にいるかも知れない。広い学校とはいえ、もし会ってしまったら、一体どんな顔をしたらよいのだろう。何を言えばよいのだろう。上手く笑えるだろうか。自然に振る舞えるだろうか。言葉が出てくるだろうか。そもそも視線を合わせてくれるだろうか。
会いたいような気もする。しかし会えば気まずいだけな気もする。
煩悶していた。
つまり、男はまだ彼女を別れた一人の女とあっさり割り切りきれずにいた。酷く切なく苦しかったのである。

彼女と並んで座ったベンチ、彼女と歩いた図書館への道、彼女と一緒に食べた学食のテーブル。彼女と一緒に授業を受けた講義室。
見るもの目に入るもの全てが彼女との記憶に、彼女の柔らかな声に仕草に姿に髪型に、クスクスというお上品な笑い方に結び付いていて、男はまた涙ぐんでしまうのだった。

夕方、彼女に構内で巡り会えなかった失意と安堵に男はグッタリしていた。そのままアパートに帰る気持ちにならず、ベンチでいつまでも項垂れていた。

ふと、前を歩く数多の学生の会話の中から、彼女の名前が聞こえて心臓が震えた。
あの娘、学校辞めたらしいよ。へぇ、何で?さぁ、何かあったんじゃないの、知らないけど。

背筋がゾクッとした。
ハッとして項垂れていた頭を上げて、声の主を探そうと周囲を見回した。
無数の男女の群れが行き交う中で、それは酷く困難だった。
けれども間違いない。女は確かに言ったのだ。彼女は学校を辞めたらしいと。

何が何だか男には分からなかった。酷く混乱した頭で、取り敢えず立ち上がりヨロヨロと教務課へ向かった。本当なのか?ならば何故?何でもよい。彼女の事が知りたかった。
鼓動が激しく全身に響いている。


駄目です。そこをなんとか。規則ですから。お願いします。駄目です。
教務課の眼鏡をかけた中年の女性職員は、やれやれとため息をついて眼鏡の位置を直すと、男に突き放すように言った。
個人情報です。学生個々の情報は他者には教えられません。

職員の冷淡な態度に苛立ちながらも、男はこれ以上食い下がれなかった。後ろにも用事を待つ学生が何人もいたのだ。
その学生達が発する、はやくしろという声なきせっつきが男の心を弱らせたのだった。
教務課がシャッターを閉めるのは五時半である。
教務課の奥にある大きな時計は刻一刻と時を刻んでいて、長針が四を越えようとしている。五時半まで後十分程に迫っている。自分一人がごねるばかりに他の学生に迷惑をかけられない。
唇をぎゅっと噛み締めつつ、無言のまま相変わらず冷淡な目付きで男を見据えている職員を恨めしげに一瞥してその場を立ち去った。
もやもやした帰り道、気付けば彼女のアパートの前にいた。
彼女の部屋には最早小さな明かりもない。
寒々とした街灯に照らされた窓の向こう、ちっぽけな部屋のなかがよく見える。カーテンもなくなり、むき出しのがらんどうの室内が、既に彼女がここにはいないことを無言のうちに語っていた。


本当に一体何があったのだろう。
等間隔に配置された街灯に照らされた男の影が斜めに長く伸びている。
男は不安に悲しく立ち尽くしていた。


アパートに帰り、またウイスキーを飲んだ。空になった瓶を枕元に投げて、焼酎の一番安い四リッター入りペットボトルに手を伸ばす。彼女が遊びに来た時に、ウイスキーは苦手だというので、一人酔っぱらうのもつまらないから色々なジュース割りを作ろうと二人で安売りのスーパーに行って、大きい方がよいだろうと一番安く大容量の焼酎とコーラやらサイダーやらオレンジジュースやら、しこたま買い込んで男の部屋に安置しておいたのだ。
彼女は男の調合した酎ハイを飲んで、美味しいと笑っていたものだった。
今は男一人、焼酎をそのままストレートでごくごくと水のように飲んでいる。
身体よりも、心が深い水の底のように冷たくて、ただただ飲まずにはいられなかった。

本当に、本格的に、彼女と途切れてしまったのだ。
狼狽える気力も尽き果てていた。
本棚の真ん中に飾ってある二人の写真。横には彼女からプレゼントされたビアグラスやらライターやらが並んでいる。
互いに貧しい二人には、大層なプレゼントなどできなかった。
けれども安くとも、こんなの見つけたよと、時々一寸したものを贈り贈られていたのだった。そのどれもが、少なくとも男にとってはかけがえのない宝物だったのだ。
うっとりボンヤリいつまでも眺めていて、時計の針が刻む音ばかりが男の部屋に虚しく響いていた。

やがて本格的に酔ってきた男は引き出しから手紙の束を取り出して一枚ずつ声に出して読み始めた。
みな、彼女からの手紙である。
現代人である。無論スマホでのやりとりもあるのだが、二人にはアナログなやりとりの方がより深い繋がりを覚えた様子であった。
今時こういうやりとりも珍しいだろうと、たまに手紙を出したり貰ったりもしていた。
口下手な二人には、その位の通信が互いに心地好かったのだ。

元気ですか。私は今日も夕方からバイトです。お酒を飲み過ぎないようにね。

互いの手紙の書き出しはいつも、元気ですかという一文から始まる。
書くこともない日は、空が青かっただの夕陽がきれいだっただのテレビのドラマが面白かったのあの俳優がイマイチだったのと、誠に他愛ない日常をぽつぽつとやりとりしていた。
彼女は達筆であった。
今は、手紙に美しく書かれたその一文字一文字が彼女の残り香を漂わせているようで、男は声に出して読みながらまた涙ぐんでしまう。

そんな時、ある一枚の手紙の文面が男の手をピタリと止めた。

明けましておめでとうございます。
実家は例年と変わらずしんしんと雪が降り積もっています。
今年もよろしく。お酒を飲み過ぎないように、どうぞご自愛ください。

最後に小さく、干支の動物が描かれていた。
絵心には疎かった彼女の描いた犬は、猫だか狼だか犬なのか、よくわからぬ得体の知れない茶色い毛の生えた四本足のおかしな生き物であった。

今となってはただただ微笑ましく眺めていた年賀状の表を見てハッとした。
そこには彼女の実家の住所が記されていたのだ。
慌てて地図帳を広げて指でなぞりながら辿ってゆく。あった。
遠い遠い北国の小さな町だ。