突然の宣告 | 悪性胸膜中皮腫と診断を受けて8年目を迎えましたが、いよいよ来たかな

悪性胸膜中皮腫と診断を受けて8年目を迎えましたが、いよいよ来たかな

平成28年7月突然の「悪性胸膜中皮腫」確定診断。その後「中皮腫サポートキャラバン隊」中心に全国行脚を展開しながら治療を続けてきました。お蔭で7年を経過致しました。ここにきて、腫瘍が両肺多発転移してあることが分かり、これからは好きなことをしていきます。

突然の宣告だった。
目の前が真っ暗にはならず、霞む感じがした。何か途方も無い迷路に迷い込むような感覚、この先どこをどう進めばいいのか立ち往生するような感覚がした。
『悪性胸膜中皮腫』
覚悟を決めるには時間が短か過ぎる。

ゴールデンウイークを目前にした休日、肩肘を付いて横になってバラエティ番組を観ながら身体を捩った時、右横腹に内臓が押されるような軽い鈍痛を感じた。
(あれ?何やこれ…)
その時は、まさかこんな事になるとは全く思わなかった。
(ん…何やろ?まあ、大したこと無いやろう。)
本当に軽い気持ちでしかなかった。
気にも止めることなく、次の日からも通常通りの生活を送っていた。
それから一週間位が過ぎたある日、いつものように自宅で肩肘を付いて横になってテレビを観ていて笑いながら身体を捩った時、再度あの内臓がグニャッと押されるような鈍痛を感じた。
(また?ん…何や…?え?石か…?)
先日、親父が脇腹に激痛を覚えて救急車を呼んだことを思い出した。その時の親父は胆石で薬を飲んで大事に至らなかった。
誰かに聞いた方がいいかも知れないと思い、夕食から予約を入れていた整骨院の先生に聞いてみた。
先生は触診しながら、
「ああ、やっぱり石違うか?今まで結石とか胆石の人たくさん見てきたけど、多分一緒やなあ。」
と確信気に答えてくれた。
私は、この鈍痛の先に親父が顔を歪めたあの激痛があるとしたら、早めに病院に行くべきだと思い、次の日早速近所の病院へ行った。
症状を言うとそこの女医も、「石が溜まっているかも知れない。」
と腹部をエコー検査した。
エコーを横に動かしながら、
「あれ〜?ないなあ?こっちかな?」
と言いながら、あちこちにエコーを動かしてみるが石は見つからなかったようだ。
「石じゃないみたいやねえ…。ひょっとしたら骨に問題あるんかもね…」
女医が言うには、仕事上で姿勢が悪くなり骨が歪み神経に影響を与えてあるのではないか。
それなら、整骨院へ行って治してもらおうと次の日整骨院へ向かった。
整骨院は予約制ではないため、待ち時間があった。その間、よく使うのが横になって使うローラーのマッサージ機で、いつものようにマッサージ機に仰向けに寝そべり、ローラーが動き出した瞬間、右肺部の背中に激痛が走った。
「痛っ」
今まで全く痛くなかった背中に初めて異変を感じた。
(ここか?痛みの正体は…)
私は飛び起きて、整骨院の先生に聞いた。先生は筋かも知れないと言い、背中をほぐしてくれるが押さえる度に患部が痛む。
マッサージを終えて、自宅に帰っても背中の痛みは治まらず、仕方なく朝一女医の病院へ行った。
「先生!ここや!」
ピンポイントで指で患部を押さえて女医にアピールした。すぐにレントゲンを撮り、診察室に通された。
診察室に貼ってあるレントゲン写真を見て、一瞬にしてヤバいと感じた。
「これ、すぐに大きな病院で診てもらった方がいいなあ。」
と女医が言うまでもなく、明らかに右の肺が左の肺の半分しかない異常事態を感じ取っていた。
しかし、心のどこかに2ヶ月前に会社の健康診断では右肺上部に陰は見当たるが特に精密検査の必要がないと書かれていたことを思い出し、言うほど大した事ないかも知れない、と自分に言い聞かせていた。
自宅へ帰ってから親にどんな顔で話そうか、心配させたらあかんよな、等々考えながら自宅に戻ると、案の定不安な顔をした両親の姿があった。
「なんか肺に陰があるねんて。でも春の会社の健康診断でも出てた陰やし、精密検査の必要ないって言われてたんやけどなあ。心配いらんやろ。取り敢えず労災病院へ来週行くわ。」
不安気に見つめる両親へ精一杯の言葉を告げた。
親父は常日頃健康状態には気を付けており、私にもサプリメントを勧めたり、体調悪かったらすぐに病院へ行けと言う。この時の親父も、言わんこっちゃないやろ!と呆れたような顔にも見えた。

次の週の火曜日、仕事を休んで紹介状を持って労災病院を訪ねた。たまたま親父も大腸ガン検査で数時間前に妹と一緒に労災病院へ来ていた。
到着して受付を済ませた私に、
「血液検査とCT撮りますんで向かいの前で待って下さい。」
と案内があったのでその通りにした。
そして血液検査、CT検査が終わり、親父の付き添いで待っている妹と雑談をしながら廊下で待っていると、
「右田さん、こちらへ。」
と個室のような所に案内された。
(え?なに?何で?)
意味が分かりませんでした。
「痰は出ますか?」
「出ません。」
「出たらここに出して下さいね。」
と言われて、目の前に何やら皿を置かれてそのまま放置状態。どうしたらいいものか途方に暮れた。
30分は経過したか?ずっと同じ場所に放って置かれる不安に、一体自分の身に何が起きているのか少しずつ整理した。そして出した結論は出もしない痰を喉から絞り出し、看護師を呼んだ。
「調べてきますね。」
そう言って、痰か唾が分からない物が出た皿を持って行った。
そして10分後、
「右田さん、もう部屋から出ていいですよ。廊下の前で待って下さい。」
やっぱりそうだ、私は結核患者の可能性が高いと判断されて隔離されたのだ。
(これで結核はなくなった。)
消去法のように、ひとつ病気の選択肢がなくなることに喜びを感じた。
廊下に出ると直ぐに名前が呼ばれた。妹も一緒に入ってきた。
「うわー、どえらい事になってるなあ。」
開口一番、担当医の先生はCT画像を見てそう言った。私はこの言葉は今でも鮮明に頭に焼き付いている。それほど事態は深刻なのかも知れないと、その一言で理解できてしまったからだ。
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先生は画像を指で差しながら言葉を続けた。
「ここに陰があるなあ。この下の陰は水かな?」
画像には右肺のど真ん中に梅干より少し大きめの真っ白な陰があった。そして、右肺の背中側には肺を覆うような陰があった。
後ろで余裕を見せていた妹の顔も曇り始めた。
私はその陰の原因を確定させるかのように、
「先生、これは癌と言うことですか?」
と口から出ていた。
「調べてみないと何とも言えないわな。」
この時のやり取りの中で、先生は癌と言う言葉は一切言わなかった。しかし私の中には癌と言う言葉が大きくのしかかって来た。
私も妹も気丈に見せて、先生に笑顔で接していたが、この時妹が先生と色々話していたのだが私の耳には全く入って来なかった。頭の中がまさに真っ白な状態になっていたからだ。
一週間後に口から肺にカメラを入れて細胞を取って調べる口腔鏡検査の予約を入れて、私は大腸ガンの検査中の親父と妹を置いて先に帰った。
帰る道中も殆んど覚えていないくらい真っ白と言うか、どうしたらいいのか、誰にどう伝えればいいのか、同じワードばかりが頭の中を回っていた気がする。
自宅に帰って、不安気な母に、
「陰を調べてみんと分からんから、来週口から肺にカメラ入れて調べるんやて。」
とだけ伝えた。
暫くして帰って来た親父は既に妹から聞いており私の顔を見るなり、
「そやからどっか悪いと思ったら直ぐに病院へ行けって言うてたんや!」
あたかも私が悪い事をしたかのように強い口調で言った。そんな両親に心配を掛けたくないという一心で、
「大丈夫、大丈夫。会社の健康診断でも陰があったんやから。前からレントゲンに写る陰を調べんでいいっていう癌はないやろ?カビか何か違うか?」
と言ったが、自分でもそれは的外れじゃないかもなあと思いたい気持ちがあったのだ。

翌週、口腔鏡検査に行った。周りは少し心配しているようだが、この時はまだ大したことはないと周りの殆んどが思っていた。それは私の体型が明らかに太っており、病弱には見えないからだ。そして自分でも不安と向かい合うのが嫌なのか、いつも以上に元気にみんなと接して悪い要素を消していた気がする。
検査は寝てる間に終わっていた。
「結果は一週間後やで。」
横になっている私に先生は言った。
(また一週間待つんかい‼︎)
決して口には出せない。

悶々とした一週間が過ぎた。
不安、疑問、甘え、恐怖が次々と気持ちの中に襲い掛かってきた一週間だった。
きっと悪性じゃない、大したことないはず、もし悪性だったらどうしようと頭の中でグルグル思考が回っていた。

どんな結果が出るのか心して病院へ行った。
診察室の前での待ち時間も長く感じた。
そして、診察室に通された先生の第一声は、
「うーん、分からんのよ。勉強になるわ。」
耳を疑った。
(分からん?勉強になるわ?どう言うこと?)
「1と2が良性、4と5が悪性としたら、取った細胞は3なんよ。」
先生は両手を少し挙げて言った。
(お手上げってかい?)
「じゃあ、悪性ではないって可能性が高いんですか?」
「いや、たまたま取った細胞に悪性な物が入ってない可能性もあるしなあ。」
私にとって苛立つような返答が続く。
「じゃあどうすれば結果分かるんですか?」
「……そうやなあ……ペット撮るか?」
ペット?聞いたことはある。確か癌を発見するには一番の方法だとか。
「ペット検査はここではやってないから、予約しとくからまた行ってくれるか?」
私は先生の言われるがままに従い、また一週間後に『像影センター』という所に行くことになった。
(毎回毎回一週間ごとって、こんな悠長に構えててええんやろか?)
と、帰りの車でボヤいていた。

そして一週間後、『像影センター』とやらに時間通りに行くと、すぐに名前を呼ばれてすぐに検査が始まった。
労災病院と違い、着いてから僅か2時間弱で検査は終わった。
この検査は、癌であれば一目瞭然で分かると周りから聞かされていたので、結果の出る一週間後までは気が気ではなかった気がする。
口腔鏡検査ででなかったのだから、この検査でも出ないはず!と自分に言い聞かせていた。

そしてまた一週間後、労災病院へ行った。今回も妹が付いて来てくれた。
待ち時間は、いつもと違い運命の瞬間を待つかのようにやたらと長く感じた。妹が時折和ませようと言う冗談にも上の空で聞いていた気がする。
「右田さん5番へどうぞ」
いつもより気持ち足取りが重く感じた。
部屋に入った瞬間、終わった…と思った。先生の顔を見るより先に、机の上に掛けてあるペット検査の像影写真に目が行ったからである。今まで普通に流れていた血流が急に引き潮となって沖に流されていくような感覚に襲われるような気がした。
説明を受けるまでもなく、見た目で判断できた。
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いくつか身体の輪切りが並んでいる。紺色のベースに所々青くなっているが、明らかに大きく赤く光る部分が三箇所にあった。
目で写真を追う私に先生が、
「この前細胞取ったのが、ここや。この下赤くなってるやろ。後、肺の周り二箇所も赤くなってるやろ。これが悪性や。」
先日口腔鏡検査で取った細胞は肺の真ん中にできた陰の上部、赤くなっているのが陰の下部だった。
と、ここで先生が妙な事を聞いてきた。
「右田さん、アスベストって何処かで携わった事ないか?」
「そう言えば…」
私は少し前に従姉妹から聞いた話を思い浮かべていた。
「あの…親父の姉さん、叔母さんが8年前にこの病院で肺癌で亡くなってるんですが、どうも実はアスベストが原因違うか?って事になってるんです。その叔母さん、若い時から泉南アスベスト訴訟を起こした工場に勤めていて、私は身内で初めての子供という事でその叔母さんに小さい時あちこち連れて行ってもらっていたんです。たまに、幼い頃の夢でホコリが舞い飛ぶ紡績工場で一人で走り回ってる自分を見るんです。」
そう言うと、先生は頷き、
「これ、キッチリと調べんと分からんのやけど、悪性胸膜中皮腫ってやつかも分からん。それやったら石綿被害の関連の法律で保証が受けられるんや。そやから、今度は赤くなってる患部の細胞を直接取って調べる胸腔鏡検査で病名調べるわ。一日入院やけどできるか。」
今まで入院は仕事の都合もあり頑なに拒んで来たが今回ばかりはそうも言ってられないので、それに応じた。
「そうと決まれば、明日入院するか?」
先生も事態の深刻さに急に慌て出したのか、すぐに入院の手続きを取らせた。
私は廊下に出て直ぐに職場へ電話し、事のあらましを話し入院することになったことを説明すると快く承諾してくれた。

家に帰る道中、妹は気丈に振る舞ってくれた。私も重苦しい雰囲気にするのは嫌で明るく振る舞ったが、心には虚しさしかなかった。今までなら僅かな希望もあったが、明日の検査は正に究極の二者択一である。悪性胸膜中皮腫か肺癌か、どっちに転んでも悪性に違いはないのだ。
自宅に帰った私は、少しでも明るい顔をと振る舞いながら両親に状況を報告した。
神妙な両親の顔を見ながら、
「もし悪性胸膜中皮腫やったら、医療費は全て国持ちやし、毎月療養費で十万位降りるって言うてるし、もし死んだら遺族に300万円入るらしいで。」
と、必死で苦しい気持ちを押し殺し笑顔で話した。
「アホか」
親父は、そんな冗談言うてる場合かとばかりに一蹴した。
その話しを聞いた親父は黙って風呂に入って行った。残った母は、私の気持ちを察してか優しい目で私を包み込んでくれた。
その時、私の目から止めどない涙が溢れ出た。
「何で俺なん?」
「何で?俺が何か悪い事した?」
流れる涙と一緒に今まで溜まっていた思いが溢れ出た。母は、
「何でやろなあ…何でやろなあ…」
と繰り返していた。
流石に母の前だけは涙腺を止められなかった。
その日の夜は流石に寝付けない。
自分が悲劇のヒロインになった気分に浸っているのか、今までの楽しいことや携わって来た人々が走馬燈のように頭を駆け巡った。涙も止まらなかった。
死んだら周りはどう変わるんやろうか?死ぬ時ってどうなんやろ?死ぬ前にやっておきたいことは?娘も息子も大丈夫か?両親は落ち込むやろなあ?みんな泣いてくれんのかな?悲しむんかな?どこまでもどこまでもネガティヴな感情が沸き起こり、いつまでもしっかりとした意識があった。
奇跡は起こる!神様が必ず助けてくれる!絶対助けたる!LINEで妹や弟、彼女が励ましてくれている。
私は、自分の置かれた立場にいつしか酔いしれていたのか。
仕事できるのって幸せやなあ。がっついて仕事しなくても仕事ができるのって幸せや。
ご飯食べれるのって幸せやなあ。食べたい時に食べれるって幸せやなあ。
家族っていいよなあ。何でも話せて誰かが困った時は手を差し伸べてくれる。家族って大事やなあ。
彼女に出逢えて良かったなあ。ここまで俺の事分かってくれる彼女いてないよなあ。彼女といてたら幸せやあ。
娘と息子といつでも仲良く遊べて幸せやなあ。これだけ仲のいい親子ってなかなかいてないよなあ。娘とずっと一緒に甲子園球場行きたいよなあ。
その夜は朝方まで眠ることはできなかった。

次の日、昼まで部屋でゴロゴロしてから病院へ向かった。直ぐに検査の準備で色々説明を聞き、麻酔などの準備に入った。
ベッドに寝かされると、
「意識はあるけど、朦朧としてるような麻酔やからね。」
と、説明されていざ検査へ。
CTで映像を見ながら脇腹、背中に穴を開けて管を通して行く感覚が分かる。痛くはなかった。あっという間に二時間弱の検査は終わった。
そのまま病室に通され、二時間安静を言い渡された。おしっこしたくなったら尿瓶に入れるよう指示を出された。
案の定、直ぐに尿意を催し、寝たまま尿瓶を用意して小便を出そうとするが出ない。暫く試すが全く出なかった。
仕方なく、こっそりベッド横に立って尿瓶に小便をした。初の体験に少々小っ恥ずかしかった。
入院は中学生の時の盲腸の手術以来で、その夜は今後の怖さと孤独感に寂しさを感じていた。
やはり頭の中には常に死の恐怖が付いて回っている。色んなことを思い返す度に、もうこんな事もできないのか、あんな事をできるのもあと僅かかも知れないのか、悪い方悪い方へ考えが駆け巡る。
そんな時、ヒマな余り着けていたテレビの映像が入ってきた。その映像はフランスでISのテロにより、数百人が亡くなったニュースだった。
暫くそのニュースを観ていた。自然とかわいそうにという感情が湧いてきた。ふと、その時私はあることに気付いた。
(ある日ある時、一瞬にして命を奪われた人は無念だらけなんやろなあ。でも僕は2年ではあるが前以て分かってるんや。治療によっては3年でも4年にでもなる。だったら悔いのないようにやりたい事やればいいという時間はあるんや。)
そう思うと、心の中に温かいものが流れてきて気持ちが軽くなった気がした。

次の日の朝、退院した。家に帰っても吹っ切れたように両親に昨夜思ったことを告げた。
明るい表情を見た両親は黙って聞いていた。
胸腔鏡検査の結果もまた一週間後、今度は両親も聞きに行くと言い出す始末。心配で仕方ないのだろう。
一週間が過ぎた。約束の時間は午後1時、しかし妹が迎えに来て私と両親も車に乗り込んだのが午後1時半。病院までの道のりがおよそ25分だったが慌てない。行き慣れた病院、いつも1時間以上待たされるのは当たり前だったからだ。
「まあ、どう転んでも帰りにどこかお店で何か食べながら今後の対策練るか?」
と、車に乗り込みおどけて見せたが周りは苦笑いするだけだった。
病院に到着し、受付を済まして両親に目をやると誰かと話しているのが見えた。
「え?何で?」
彼女がいた。心配で来てくれたのだ。めっちゃ嬉しかった。
待ってる間も、彼女は両親に気遣って色々話してくれていた。僕には本当に勿体無いくらいの存在である。
この日も混んでいた。2時間近く待ったか、診察室に呼ばれたのは午後3時半を回っていた。
名前を呼ばれたので私が先に入り、
「先生、こんにちわ。ここへは何人入れますか?」
と尋ねた。
「何人でもいいよ。入れるんだったら。」
私はみんなを手招いた。
「先生、どうですか?悪性胸膜中皮腫ですか?」
言い難い部分を直撃した。
「恐らく間違いないと思う。ただ確定させるにはもう少し日が掛かるけど、まず間違いないやろう。」
先生は落ち着いてそう言った。
「じゃあ、治療法は抗ガン剤ですか?」
妹が後ろから聞いてきた。
「そうやなあ、手術はリスクがあり過ぎるからここではしない。外科になると大手術になり、体力が持たずに途中で…と言う方もいるんで勧められへんなあ。今良い薬も出てるし、それで様子を見てはどうかな?」
先生は外科手術で大きなリスクを背負うより投薬治療を勧めた。
「治験とかあるって聞いたんですが、それは悪いものじゃないからあればした方がいいと聞いてるんですが。」
前に知り合いから新薬の臨床試験があれば、マイナスはないから受けてみる価値はあると聞いていたので尋ねてみた。
「そうやねん。うちもこの9月から治験を導入することになったんや。最初に打つ薬の効果が悪かったら、新しい薬を試そうかと思ってんのよ。」
何か先々が分かってるかの様なナイスタイミングやなあと思った。神様が良い方向へと導いてくれているような。
「それでどこまで回復するんですか?」
と聞いた。
「その新薬を使ってや、平均寿命2年やなあ。」
突然の宣告だった。
先生のこの一言で、一瞬その場の空気が止まった。
「先生、それって平均でしょ?」
妹が沈黙を破って、先生に聞いた。
「まあそうかな。」
「でもネットで見たけど、何年も生きてる人もいてますよね。」
「まあ、平均やからそれ以上の方もいてますよ。」
先生はミニマムでしか答えられないのだと理解するしかなかった。
入院、抗ガン剤治療の日程を決め、説明を聞いて病院を後にした。
帰りの車の中は、みんなが銘々に励ましてくれた。本当に嬉しかった。自分でも諦めへんぞと心に決めたが、一緒に虚脱感もあった。

それからと言うと、親父は昔から愛飲しているマコモを徹底的に飲ませ、妹は水呑地蔵様へ毎日お参りに行き、東京に住む弟と妹はLINEで励ましてくれながらどんな物が病気に効くのか色々調べてくれた。
時にはマコモが嫌で親父とぶつかった。その度に親父は悲しそうな顔をした。
妹について行って水呑地蔵様へお参りにも行って、先生からお話を聴いて心を落ち着かせた。妹は絶対に良くなると言う一心で拝んでくれている。
弟夫婦は、韓国で医療薬品にもなっている効き目のある薬を送ってきてくれた。
彼女は、私の話しをずっと聞いてくれて全てを受け止め、飲み込もうとしてくれている。
娘は悲しい顔を私には見せず、常に笑顔で勇気を与えてくれる。
同僚や親戚は、セカンドオピニオンを勧めてくれたりもした。
みんな私のために何ができるか考え、動き回ってくれている。私は幸せ者なんだ。この一生懸命なみんなの期待に応えたい!ずっと一緒にいたい!諦めてなるものかと気持ちを奮い立たせることにする。決して最後まで諦めないでおこうと思った。