
ボクシングを題材とした舞台劇。
縁があってボクシングシーンの指導ということで稽古に参加した。
競技としてのボクシング指導ならなれているけど、演劇の中で基礎動作もままならない役者さんを動かすのはきびしいだろうなあと思っていた。
でも、始めてみたらみんなかなりまじだ。
吸収しようというエネルギーがすごくてなんかうれしかった。
あたりまえなんだけど、役者っていうのは大人であり、プロだということを忘れてた。
本番まで一ヶ月。
どんなふうに仕上がるか楽しみだ。
おれが選手だったときはボクシングっていうのは考えるものじゃなくて本能で噛みつきあうものだと思ってた。
噛みつきあって勝って負けてうれしかったり悔しかったり痛いおもいを抱えてありがとうとかごめんなとか言って勝手にすっきりしてた。
どんな結果が出ても、物語の中心はおれだった。
どんなに小さな世界だとしても、まん中はおれ以外にあり得なかった。
いつでもおれのことしか考えていなかった。
おれおれおれおれおれおれ。
おれがボクサーをやめたとき、ボクシングっていう競技自体もそのうち世の中からなくなるんじゃないかと思ったくらいだ。
なにしろ、お子様、だったんだろう。
おっさんになってトレーナーになって、選手の動きとか考え方を察しながら個々人の能力とか性格に合わせながらボクシングというのを伝えるようになった。
ひとに伝えるっていうのは自分が動くのとはまったく別の能力や工夫が必要で、そんなのはあたりまえなんだけど、切り離して考えることは意外と覚悟がいる。
自分が伝えることが選手や選手を応援しているひとたちみんなに影響を与えるからだ。
ひとのぶんも責任を感じなければならない。
そんな必要はないのかもしれないけどそのほうがおもしろいじゃん。
なぜなら、おれのやってることが未来にも影響を与えるってことだからだよ。
伝えるってことは伝えられたひとはボクシングを覚えるだけじゃなくておれとの時間を覚えるんだよ。
そのひとは教わったことを試合なんかで試すだろう。
勝つかもしれないし、負けるかもしれない。
でも、またその記憶を自分なりに組み立て直して次のひとに教えるんだ。
それはもしかしたら、おれが教えたこととは少しちがう形になっているかもしれない。
おれが教えた通りにやって試合に負けてしまったために、そいつが指導するときにはおれが教えたものとはまるっきりちがう形に変えてしまうかもしれない。
ちがうスポーツの指導をするかもしれない。ゴルフとか。そいつはおれと同じようなしゃべりかたでゴルフを教えるのかな。
形がどうなるかはわからない。
場所もわからない。
おれにボクシングを教わったやつが、十年後アフリカでゴルフを教えるかもしれない。
それはそれでしょうがないさ。
でもそいつらにはおれと過ごした時間が血になって脳や体を流れてる。
ともかく、おれがやることは多かれ少なかれ、早かれ遅かれ未来に影響を与えることだ。
どんなことでもそういうのを考えながらやるのがいいんじゃないかな。
だから、今おまえといる時間こそがいちばんだいじなんだよ。
