面倒から逃げて南の島から戻ってきた。
ナイトマーケットを歩いてたら小さな女の子に腕をつかまれた。
一瞬息が止まりそうになったがすぐにそんなはずはないと思い直した。
おれの腕は汗ばんでいた。
女の子の指先は爬虫類のような感触だった。
店先の棚から真っ赤なスカーフを持ってきておれに突きつけた。
広げると本物そっくりの虎の絵が描いてあった。
おれはオーケーと言って買った。
いっさい値切らなかった。
女の子にお小遣いもあげた。
彼女はコクプンカーと言った。
おれは微笑みを作って彼女に向けた。
彼女は笑わなかった。
おれは手を振った。
彼女は胸の前でぎこちなく手を合わせた。
スカーフはそのままもらった。
女の子の父親らしき店主が紙袋に入れてくれようとしたのを断った。
おれは薄い黄色のアロハシャツを着ていた。
南国の花柄のラインが縦に走った落ち着いたデザインのアロハ。
その首元に虎を巻きつけた。
おれは背筋を伸ばして人だらけの路地を歩いた。
炊きたての米のにおいと排気ガスが別々におれの鼻の奥をくすぐった。
フルーツの屋台は原色ばかりで涙が出そうだよ。
約束していた店に行くのはもうやめた。
行ったって小銭をせびられて感覚器を刺激されるだけだ。
もう帰ろう。
うんざりだ。
ナイトマーケットに来ればどうせこんな気分になるんじゃないかと思ってた。
交差点で信号を待っていたら青になった。
渡るのはやめた。
そこにあった木の箱に腰掛けた。
もう疲れた。
そう思えてよかった。
電話ボックスから航空会社にリコンファームの電話をすればいい。
本当にもう疲れた。
その前の週にはリゾート地を建設中の島へ行った。
現地に居着いた不良ファランに騙されて命からがら逃げてきた。
騙されたことに気づいた深夜のうちにそのバンガローホテルから逃げ出した。
島の腐敗警官に捕まって三十年以上の刑務所暮らしなんてごめんだぜ。
島の開発地は東側で、船着き場は西側にしかなかった。
おれは電灯ひとつない山道を五時間かけて歩いた。
サーベルタイガーが出てきて食われるかもしれない。
人食い猿がたくさん現れておれを取り囲んでこの人生が終わるかもしれない。
アルコールに混ぜた妙な液体を飲まされたおれの目は黒い波の上を歩いているかのように不安定だった。
揺れ続ける波の中に金色の小魚が飛び跳ねていた。
金粉にまぶしたしらすが網膜の裏側を暴れていて、鰻の稚魚を捕まえて大金持ちになった漁民の昔話を思い出した。
山道は夜の鳥が恐ろしい金切り声をあげていて、おれがもしサーベルタイガーに襲われて首の骨を噛み殺されたら、そのあとで鳥たちがおれを貪り食うだろう。
明け方には白い骨だけにしてくれるだろうと思った。
月明かりで辛うじて見える黒い木々の景色がぐるぐる回り続ける世界はひどく不快だったし、もう一度バンガローに戻っておれをこんな目に遭わせたあの白人を殺してやろうとも考えた。
今あの野郎はたぶん、ドイツから来た女子学生たちとアブノーマルプレイを楽しんでる真っ最中だろう。
紫色の煙がつまったあの木の家で。
背中がそばかすだらけのでぶ女ども。
あんなちんぴらを殺すのはかんたんだ。
そうなれば原住民はしばらくおれのために働くかもしれない。
だがそれはつまらない意地だ。
おれは日本にかわいい妻が待っていて、その腹の中にはおれの息子がいる。
超音波写真で見たおれの子。
面倒から今は逃げなきゃ。
虎に食われるなんて冗談じゃないぜ。
サーベルタイガーの鋭い牙。
虎が笑ってるよ。
おれの首で。
勲章だぜ。
もう帰るよ。
ありがとう。
楽しかった。
また来るよ。
いつかはわからないけど。
おれは子どもを育てなきゃ。
虎みたいな息子だといいな。
虎みたいに育てるんだ。
そんなふうに思ってたんだけど、生まれたのは娘だったよ。
