とららよしのブログ

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政治、社会、エネルギー、IT、歴史関係のメモ
旅行もアップします。

 

呉の海上自衛隊の見学の予定があり、三原駅から瀬戸さざなみ線の電車で呉駅に向かいました。

初めて乗ります。

 

  三原駅

三原駅の壁に飾っている絵画。

1802年当時の三原城周囲の風景絵です。

三原城は海岸に接していたことや、当時からも船船の往来が盛んだったことがわかります。

 

朝7時過ぎ(5月でした)に車窓からみる三原港。いい感じです。グッ

現代も船船の往来は盛んですね。

 

ほとんどが瀬戸内海が見える風景で「良き」です。波

海水も澄んでいます。おそらく忠海(ただのうみ)あたりだったと思います。

車窓から撮影しました。

 

小さな島が続く風景は、地元福岡とはまた異なり新鮮な風景です。

 

 

  安芸幸崎駅

安芸幸崎に近づくと、今治造船(大きな造船所だびっくり)が見えてきました。

日本国内のタンカー船建造シェアの51%だそうです。船

 

コンテナ船(たぶん)が建造中でした。

 

 

  安芸長浜駅

安芸長浜駅から見えるJPOWER竹原火力発電所です。

JPOWERの火力発電は石炭火力をメインとしています。

従来イメージの蒸気機関車のように石炭を燃やし続けるわけではなく、

現代は「石炭ガス化複合発電(IGCC)」という技術革新により、高効率なエネルギー変換を達成しています。拍手

 

 

  安芸津駅

安芸津駅につくと、街中に入ってきたイメージです。

遠くの山頂に「万」の文字が見えます。

安芸津は瀬戸内海の海上交通の要所だったことから、聖武天皇の命で新羅に向かう途中の遣新羅使が停泊した際に

詠んだ句が万葉集に収められたことが由来だそうです。日本

歴史を伝えるために「万葉火」として初夏に火を灯すそうです。神社

 

 

 

安浦町あたりには、カキ養殖のためのカキいかだが見えます。

こういう風景も広島を感じます。

 

途中の広駅を境に「瀬戸さざなみ線」から「呉線」に名称が変わるそうです。

 

 

  呉駅

 

呉駅に着いたのは9時過ぎでした。

 

海上自衛隊に向かいます。

つづく。

 

 

 

  参考

 

今造の船|今治造船株式会社 -IMABARI SHIPBUILDING CO.,LTD-

 

化石電源のゼロエミッション化への取り組み | 火力発電事業 | 事業情報 | J-POWER 電源開発株式会社

 

 

久留米の石橋文化センターを訪れました。

 

1956年に石橋正二郎氏から寄与されたもので、

敷地内の中心には噴水があり、美術館や図書館、遊歩道など

地元の方々の憩いの場所になっているようです。優雅ですね。ニコニコ

 

石橋正二郎記念館に入り、ブリヂストンの成り立ちを学びました。(館内は撮影禁止)

 

 

 

  ブリヂストンとアサヒシューズとムーンスターの関係

 

久留米にはブリヂストンのほかにも、アサヒシューズや月星シューズなど靴のメーカもあり、

関係性をいまいち把握していなかったのですが、関係性の歴史を調べてみました。

 

・1873年(明治6年):久留米市で倉田雲平が槌屋(つちや)足袋店(のちの月星)を創業
           座敷足袋の製造を開始。



・1892年(明治25年):久留米市で石橋徳次郎(正二郎の兄)が志摩屋(のちの朝日)を創業。
            座敷足袋の製造を開始。

・1907年(明治40年):石橋正二郎も志摩屋に入社。

 

 

 

・1918年(大正7年):倉田雲平からの「これからは大量生産の時代だ」とのアドバイスにより、
          石橋正二郎らが「日本足袋(現・アサヒ)」を設立。
          両者はライバル店ながらも、関係は良好だったそうです。

 

 ドキドキ  

 


・1922年(大正11年):アメリカのゴム靴を見た石橋正二郎がヒントを得て、足袋の裏にゴムを貼った

           日本初の「地下足袋」を開発・販売。
           丈夫で安全だったことが労働者の間で爆発的ヒットとなります。

 

 

・1923年(大正12年):「つちやたび(現・月星)」も追随して地下足袋の生産を開始。

・1925年(大正14年):「つちやたび」がのちの社名となる「月星(ムーンスター)」ブランドの

           ゴム靴(スニーカーや長靴)の製造を開始。
           アサヒと月星の2大巨頭が、日本のゴム靴市場を牽引していくことになります。
           
・1928年(昭和3年):日本足袋(現・朝日)の社長・石橋正二郎が、将来のモータリゼーション(車社会)を見据え、
           社内に「タイヤ部」を設立。純国産タイヤの第1号を開発します。

・1931年(昭和6年):日本足袋のタイヤ部が独立する形で、「ブリッヂストンタイヤ株式会社(現・ブリヂストン)」を設立。

 

 

以上が、「久留米はゴムの街」と言われる所以です。

勉強になりました。

 

 

  参考URL

 

石橋正二郎記念館 | 石橋文化センター

石橋正二郎名誉市民顕彰会

 

 

 

10年ぶりに久留米に行きました。

 

久留米城跡は初めて訪れました。

 

本丸があった場所は篠山神社が建立されています。

 

 

 

  天守台からの眺め

 

北西方向には筑後川が見えます。

 

東の月見櫓跡からの眺め。ニコニコ

久留米大学のグラウンドが広がります。

 

でも、足元を見ると、柵もないし、高くて怖い。びっくり

 

 

  久留米城は有馬家が城主

 

有馬家は室町時代に摂津有馬郡の氏族で、戦国時代には豊臣秀吉側についていましたが、

1600年の関ケ原の戦いで徳川家康側の東軍に就き、大坂の陣で戦果を挙げたことから

久留米21万石が与えられ久留米藩の藩主となりました。

 

ちなみに、有馬家の有馬は有馬温泉の有馬です。

ちなみに、福岡県の福岡は、黒田家が備前福岡出身(現 岡山県瀬戸内市福岡)だったことから命名されたものです。

 

櫓(やぐら)がある時代

天守閣はありませんでした。

 

現在

明治政府の廃藩置県により、城は取り壊されたそうです。

 

 

  敷地には碑が多い

 

篠山神社には、多くの碑が建立されています。

 

有馬家の前の久留米城の城主だった小早川秀包をご祭神とした小早川神社

 

なぜか聖徳太子像

 

島原の乱での御霊を祀った篠根(ささがね)神社

 

久留米藩に功績を残された方、戊辰戦争や太平洋戦争など様々な戦で命を落とされた方々の碑が複数あります。

 

本殿も立派です。

 

敷地内には、有馬記念館という久留米城の歴史を学べる施設もあります。

 

 

  久留米=ブリヂストン

 

 

久留米城の本丸の南側に位置していた、二の丸、三の丸などは

現在はブリヂストン工場や関連施設になっています。

ブリヂストンの主な関連施設は主に地図の赤丸の部分です。

 

 

久留米市はブリヂストンと子会社や関連メーカが多く存在します。

結果、ゴム製造業が盛んです。

久留米といえばブリヂストン。石橋正二郎です。

 

せっかくなので、このあとに石橋文化センターにも行き勉強しました。

ブリヂストン発展の経緯については、詳細は次回に記述します。

 

 

尾道から三原に来ました。

 

尾道駅周囲と比較すると人は少なめです。

 

  三原城の天守台跡


三原駅内から三原城の天守台跡に入れます。

 

 

駅の奥のドアを開けると、天守台跡に入れます。

 

 

 

三原城主は小早川家が代々受け継いでいました。

 

 

石垣の存在感が凄い。しかし、都市開発には邪魔な存在だろうなと邪推してしまう。。驚き

しかし日本の歴史を語る上でも重要な建造物なので地元の方には大切に保存してもらいたいです。おねがい

 

  三原歴史民俗資料館


駅から歩いて10分程度の場所に三原歴史民俗資料館があります。

少し上り坂なのでキツイ。驚き

 

資料館には小早川隆景に関する資料が並んでおり勉強になります。

 

これはありそうでない、主要人物のガントチャート。人物同士の先輩後輩の関係性が一目でわかって便利です。ニコニコ

 

 

三原での歴史城の人物は小早川隆景が有名です。(ぼちぼち豊臣兄弟に出演しだしました)

 

隆景は、毛利元就の三男坊です。小早川家に養子に入り、長男次男の3人兄弟で力をあわせ毛利家を発展させます。

毛利元就が3人の子供に「三本の矢」を説いたことで有名です。

普通は兄弟でも権力争いがもとで敵対化することが多いのですが、元就の教えを守ったのでしょうね。ニヤリ



  参考

 

 

三原市歴史民俗資料館が新しくなりました | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち

 

 

広島市出張のついでに、いつも歩いている本通りに、レトロで重厚な建物があるなと思っていました。

それは、原爆の爆風にも耐えた旧日本銀行広島支店でした。

無料で見学ができます。

 

 

入口付近の碑

 

平日10時だったからか、入場客はいません。

当時はモダンだったと思われます。

 

流石に原爆投下時は天井のガラスや窓は吹き飛んだそうです。

しかし、2日後には営業再開したらしく、

雨の日は室内で傘を差しながら営業したそうです。

この根性の経済活動が、戦後復興を促進しました。

 

3階まで見学ができます。

地下にも展示物がありました。撮影禁止でした。

 

 

当時の日本銀行の様子や、

原爆被害時の写真が展示されています。

 

 

  ここはどこだ?

 

建物が爆風に耐えたと知った瞬間に、下の写真の風景を思い出しました。

昭和天皇が広島へ行幸啓(ぎょうこうけい)された際の写真

 

以前に観た、NHKドキュメンタリーの「映像の世紀」での映像がよぎり、

ここに日本銀行広島支店が映っているのではないかと思いました。

 

ネットや様々な文献、広島地元の方に聞いても、よくわからず。

 

写真の右横の建物かなと思いましたが、位置関係が変。

しかも、実際に日銀の建物をみると、形状が違う。

受付の方に聞くと、どうやら商工会議所らしい。

 

しかし、左の鳥居は、どこの神社のものか分からない。

昭和9年に旧市民球場近くに移設していたとのことなので、

 

有力な情報を得られず。写真から勝手に推測したところ、広島城の南側から南に向いた場所かなと

いうことで、個人的には納得して落ち着きました。

 

 

 

  白神社

 

日本銀行広島支店のすぐ近くに、白神社があります。

 

豊臣政権の時代はここは海だったとのこと。

岩礁に乗り上げ座礁する船が多かったので岩礁に白紙を立てて事故を防いでおり、

それが信仰され、毛利輝元が白神(紙)社を建立しました。

 

 

 

  広島市の干拓の歴史

 

昔の地形では確かに白神社の位置は海辺です。

 

広島城についても、現在は内陸部に位置しますが、築城した当時(豊臣政権時代)は海に近い場所でした。

城主の毛利輝元は、豊臣秀吉から「海に近すぎて水攻めされやすく防御力が弱いのでは?」と指摘され

輝元が憤慨したというエピソードがあります。煽り

 

地図で見ると納得です。

 

 

 

  参考

 

原爆投下と日本銀行 : 日本銀行広島支店

 

由緒 | 広島護國神社

昭和天皇と広島 - 日本会議福岡

 

前回につづき、尾道の商店街をあるき、某施設に入場しました。

そこの受付のおじさんと会話しました。(人物特定を避けるため某施設としています)

 

映画「東京物語」に思い入れがあるそうで、20回くらい見たとのこと。びっくり

・竹村屋の家紋は小津の拘りで変更している。

・最後のシーンが尾道でおわるのは反戦を意味している。(原節子演じる紀子は夫が戦争で亡くしている)

・小津安二郎は原節子に恋愛感情があったが、自分の命を悟りプロデューサーの山本武氏に委ねた。

などの解説(主観もあるとおもうが)をしてもらいました。楽しい。

 

他にも、

・大林宣彦監督は尾道出身で尾道三部作を製作するほどの尾道への貢献度は高い。

 しかし、尾道にゆかりのある映画を展示する「おのみち映画資料館」への関与はされていない。

 簡単に言うと資料館は昔を懐かしむ施設であり、大林宣彦監督は自身の映画を過去のものとすることに反対していた。

 というニュアンスらしい。芸術家ってそんなものなのかもしれませんね。

とか、

・皇族の方々の尾道観光の案内をした。

....等々

尾道に思い入れがある方の話と感心していたら、なんと名古屋出身だそうで、尾道が好きで移住されたとのこと。

結局施設に入場するまで、受付の場で30分くらい話し込みました。(それだけ他の客がいなかったという。。てへぺろ

 

その東京物語(1953年) 

あとで、30年ぶりに東京物語をアマプラで観ました。1953年公開。

 

とみさんの葬儀あとの家族の会食シーン

このシーンは東京の撮影所らしい。

 

このシーンは竹村屋(今は日本有形登録文化財)

 

現在

 

今は日本有形登録文化財になっています。宿泊もできるそうです。

確かに家紋は映画と違う。

 

 

1950年代の平均寿命が低いびっくり 

 

ちなみにこの時の笠智衆の年齢は49歳。(役の年齢は70歳)びっくり

娘役の杉村春子は47歳。年相応です。

笠智衆の話し方、歩き方、すべての佇まいがおじいちゃんだ。ウインク

ただ、肌質はまだ若いかな。

 

とみさんが危篤となったシーンで「お母さんは68歳でしたね(亡くなってもおかしくない年齢を示唆)」

というセリフがあり、違和感がありましたびっくり。68歳はまだ若いので。。

もしやと思い、厚生省HPから1955年の女性の平均寿命を確認すると67.75歳でした。時代を感じますね。キョロキョロ

 

「おのみち映画資料館」に行きました。

おのみち映画資料館 - 尾道市ホームページ

 

新藤兼人監督と小津安二郎監督の作品がフューチャーされています。ウインク

確かに大林監督の作品は展示されてない。無気力

 

 

 

ほかにもその施設のおじさんから、尾道出身の有名作家である林芙美子の小説も紹介されていたので、

後で林芙美子記念館にも向かうことにしました。

 

 

広島県の尾道市に行きました。

 

尾道駅を出ると海(河川程度の幅ですね)を挟んで向島がすぐそこに見えます。駅前としては珍しい風景です。

修学旅行生や観光客もたくさんいました。

 

 

駅前からすぐ左手に商店街があります。

 

レトロな街並みが観光地として活かされています。

古い建物をリノベーションした店も多く見られます。

映画のセットのような建物も多くて楽しめます。

 

 

 

  尾道ラーメン発祥の店

尾道市役所近くの「尾道ラーメン 朱」でラーメンを食べました。

尾道ラーメンは地元人気店「朱華園」が発祥。

「朱」は「朱華園」の味を復刻し創業者の身内の方が継いだ店だそうです。

開店10分後に到着したのですが、行列ができていました。しかし回転が良いので10分程度で入れました。

(店を出るころには行列の人数はふえていたキョロキョロ

醤油ベースのスープで味も上品。抜群に美味しいです。OKよだれ

 

 

 

 

  尾道商業会議所記念館 国立銀行の成り立ちを知る

 

商店街に商業会議所記念館に入りました。

尾道が発展した歴史を知ることができます。

北前船(大阪~北海道を下関経由での海上交易)の物流拠点として豊かになった尾道は

「銀行浜」と言われるほど金融機関が林立したそうです。

広島県で初の銀行は尾道だったそうです。(当時は第六十六国立銀行。現在の広島銀行)

 

国立銀行といっても、伊藤博文や大隈重信が掲げた国の法のものとで設立した民間企業です。

数字は設立した順番です。にっこり

 

 

  尾道に寺社仏閣が多い理由

 

尾道は寺社仏閣が多く密集しています。

なぜか歴史的背景としての理由があります。

・尾道は昔から山岳信仰や修験道の修行の場である文化

・尾道が物流拠点として財をなした豪商による保護によるもの

だそうです。

 

また、尾道は災害もなく空襲を受けてないこともあり、区画整理に至っておらず、古い家屋や道が狭いところが多いようです。

これはこれで観光客には良い材料だと思います。(住民は大変かもですが)

 

 

散策はまだ続きます。

 

つづき

入船山記念館に向かいました。

 

  美術館通り

 

道中は小雨が降っていましたが、

美術館通りは、緩やかな坂道に彫刻が随所に設置されており、

昼下がりの小雨と静けさが情緒豊かで雰囲気が良かった。

 

入船山記念館のマップ

門を入ってすぐ左手に東郷平八郎の別宅が展示されていますが、時間がなく素通りしました。キョロキョロ

 

  入船山記念館の入口

 

入船山記念館も同じく小雨が似合います。

 

入場料を支払い、ダメ元でボランティアガイドさんに説明をお願いしました。

私一人のために申し訳ないと思いましたが、快く受けてくださいました。

途中で、東京八王子から来られた夫婦一組も一緒にガイド受けることに。

このご夫婦が歴史に詳しく、質問の内容が理に適っており私も勉強になりました。

 

 

南雲中将なら知ってる。

 

  旧呉鎮守府(ちんじゅふ)司令長官官舎

まず

鎮守府とは、「旧日本海軍が所管海軍区の警備・防御に関することを司り、所属部隊を監督した機関」です。

4か所の軍港に置かれました。呉は第二海軍区となります。

 

 

呉鎮守府開設に伴い,明治22(1889)年に建てられました。
呉鎮守府開庁式へ明治天皇が行幸されるときの行在所として使われることとなり、
初めてこの建物を使用したのは明治天皇でした。

当時は2階建てだったそうですが、1905年に大地震(芸予地震)により倒壊し平屋建てに再建されたそうです。

それ以降、呉鎮守府司令長官(海軍大将や中将)とその家族の住まいとなっていたそうです。

 

近くでみると、窓枠の木材の塗装が痛んでいました。ウインク

裏にある、和館部から入ります。

いわゆる明治から昭和の和風の造りです。

障子の高さは当時の日本人サイズ。

 

客室から食卓は繋がっていて、奥のドアの向こう側は和室です。

洋館部になると、天井やドアの高さを感じます。高さが欧米人サイズ。

雰囲気ありますね~。

NHKドラマ「坂の上の雲」でも撮影に使われたそうです。

 

壁紙は、「金唐紙」が用いられています。

金唐紙は初めて知りました。

和紙でできており、日本の伝統技術だそうで、職人さんが一人しかおられません。

ガイドさんから、いろいろ説明頂きました。


金唐紙についての詳細は以下URLから参照ください。

勉強になるな~ニコニコ

金唐紙とは 金唐紙研究所 | 【公式】金唐紙研究所

鹿鳴館を彩った「金唐紙」とは? その魅力を彬子女王殿下と共に考える | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

 

 

数々の由緒ある施設に用いられています。

 

一緒に説明を伺ったご夫婦と少し話をし、ここを最後に呉を後にして福岡に帰りました。

 

後日また呉に来ることになります。

 

 

 

呉湾艦船めぐりに参加しました。

呉湾艦船めぐり|有限会社バンカー・サプライ

 

呉湾にはたくさんの艦艇が停泊しており、海側から間近でみることができる人気ツアーです。

 

参加日はあいにくの雨でした。

クルーザの2階がオープンデッキなのですが安全上の理由から傘をさすことができないとのことで、

売店で雨ガッパ(150円)を購入しました。

 

護衛艦「かが」です。

現在、定期点検中と思われます。点検にあわせ、最新ステルス戦闘機F-35Bが離着陸できるよう改造中。

防衛予算は岸田内閣で増額して確保していたはず。

 

間近でみると、凄い迫力ですびっくりびっくりマーク。写真ではどうしても伝わりません。煽り

 

元自衛官の方のガイドもわかりやすく、

また、艦艇で作業中の自衛隊の方々が手を振ってくれるので子どもも喜びます。

それにより親も喜ぶという相乗効果。

良い観光資源ですね。

 

護衛艦「むらさめ」

 

 

湾内の港には沢山の艦艇が停泊しており、これも圧巻です。

我々福岡県民が普段目にしない非日常的な風景です。指差し

 

輸送艦「おおすみ」

全長178mとのこと。

近くによると大きい。動画でみると少しは伝わるかな。

 

 

潜水艦(そうりゅう型)が複数隻停泊しています。

日本の潜水艦は三菱重工と川崎重工が製造しています。

 

作業中の自衛隊の方々が手を振ってくださっています。皆大喜び。

 

かつての戦艦大和が造船されていたデッキです。

 

 

最後に、添乗員(元自衛隊?)さんから「これらは日本を守るためのものです」という主旨を述べられており、

自衛隊への理解を求められていました。

全くもって同意します。ニコニコグッ

 

時間は40分ですが、満足しました。

また乗りたいですね。

 

次は、入船山記念館に向かいます。

 

前回からの続き。

 

3Fの潜水艦の展示室へ行きました。

潜水艦の模型やパネルでの説明。元自衛官?さんの説明もしてもらえます。

 

どこに出没するかわかならい潜水艦の存在は、他国からの脅威に対する抑止力になっています。

隠密行動をとるためにも、潜水艦の技術力は欠かせないものであり、

日本の潜水艦は世界でもトップクラスの技術力の結集でできています。

これも日本人が安全に生活できている防衛力のひとつです。

 

  スクリュー

 

スクリューは音を発生するため、音を抑制する技術革新が進められています。

スクリューの形状や角度、羽の枚数から音の特徴が判明してしまうため、軍事機密だそうです。

 

潜水艦の進水式でのスクリュー画像は無かったり、マスクされたりしています。

 

  動力源

 

アメリカやロシアなどは多くの原子力潜水艦が採用されていますが、

日本ではディーゼルエンジン+リチウムイオン電池方式です。

いずれも一長一短があり、目的が異なります。

簡単にいうと、原子力潜水艦は敵国そのものへ攻撃を辞さない脅威を与える目的。

後者は日本への攻撃コストが高いと思わせる目的。

 

 

あと、写真右の潜水艦の中にも入れます。

 

  潜水艦について勉強してみました

 

潜水艦についての解説動画です。豊島晋作さんの説明はわかりやすい。

 

潜水艦を取り巻く世界情勢。原子力潜水艦の導入の現実性の解説。

 

次は

呉湾艦船めぐりです。