佐嘉神社

 

佐嘉神社にお参りに。

御利益は、文武両道、大願成就、家内安全です。

 

佐嘉神社の御祭神は、佐賀の名君である鍋島直正と鍋島直大です。ウインク

佐賀は元々「佐嘉」が正式な漢字でした。

「嘉」は「良い」「めでたい」など縁起の良い字です。

 

明治の廃藩置県に伴い、明治政府は「佐賀」に変更しました。

書きやすい表記にしたかったのでしょう。

 

佐嘉神社は、昭和8年に建立されているものの、鍋島直正公への敬意も込めて

「佐嘉」を使用しています。

 

境内の入口に飾られている「佐賀の七賢人」のおおきなオブジェ。

 

境内です。街中ということもあり、人手は多いです。

 

 

  佐賀藩の技術力

 

神社にカノン砲

 

神社にアームストロング砲

 

佐賀藩は日本で唯一大砲を作る技術がありました。ウインク

幕末当時にイギリスで開発された「アームストロング砲」は飛距離・命中精度は世界最高峰でした。

鍋島直正公は、輸入に頼らず国産化に力を注ぎました。

 

佐賀藩の技術力をもって、鉄を不純物なく溶かす「反射炉」を実用化させ、みごと大砲の製造の国産化に成功しました。

幕府も満足に作れなかった最新兵器を、地方である佐賀藩が作ったことは幕府にとっては脅威だったようです。アセアセ

やがて、戊辰戦争でも使用され、幕府は追い込まれることになります。

 

 

つぎは佐賀城へ向かいます。

 

 

 

 

 

 

 

  大隈重信記念館は佐賀城の近く

 

所用で佐賀市に行きました。

時間があったので、「大隈重信記念館」に立ち寄りました。

 

場所は佐賀城の近くです。

 

 

入場すると、銅像や碑文が目に着きます。

佐賀県が排出した総理大臣は大隈重信のみ。

当時は貴族院ですね。貴族院は今の参議院にあたります。

 

 

  生家

 

敷地内には生家があります。

佐賀城近くの武家屋敷一帯にあります。

当時の佐賀藩は、長崎警備の役割を担っており、

大隈家は佐賀藩の砲撃部隊(当時のエリート部隊)で良い家柄だったそうです。ニコニコ

 

二階の勉強部屋

押し入れスペースに階段を作ったとのことで、傾きが急勾配でほぼハシゴ状態です。

ボランティアガイドさんに説明してもらいました。

当時は幕府の規定ではニ階建ては禁止だったそうですが、佐賀藩主の鍋島直正を筆頭に

佐賀藩は教育に力をいれており、勉強部屋として許容されたようです。ウインク

 

幼いころの重信は、ここで日々勉強に励んだそうです。

壁から梁が突き出ていますが、重信が勉強中にうたた寝したとき頭を打つようにと意図的な造りとされたそうです。驚き

 

 

  館内

記念館に入りました。

館内は大隈重信の生い立ちの説明パネルや、ゆかりの品が展示されています。

爆弾テロで右足を失ったあと使用していた義足もあります。少し怖い。

 

SNSで、たまに目にするこの集合写真。幕末の有志の集まりとしてアップされている方がいますが、違います。

事実は佐賀藩が作った宣教・英学塾「致遠館(ちえんかん)」の重信の恩師フルベッキの送別に集まった塾生らの集合写真です。

 

 

  重信の恩師 フルベッキの功績

重信は致遠館に入塾し、当時のフルベッキ校長から強く影響を受けます。

・重信は副島種臣らとともに、フルベッキのもとで英語や憲法、キリスト教、西洋事情を学びます。

・また、「アメリカ独立宣言」や「憲法」について学び、民主主義や自由主義の概念に強い衝撃を受けました。

 これが、後の重信の政治思想(立憲政治)の原点となります。

・重信が政府中枢で活躍する時期も、フルベッキの助言を受けていました。

・フルベッキは「日本の将来のためには、指導者が欧米を直接見るべきだ」と岩倉使節団の派遣を提案しました。

 これを重信が強く推進し実現しました。

 

岩倉使節団の欧米訪問後には、日本は西洋文化を多く取り入れることになります。

 

 

  早稲田大学の創立者です

大隈重信は早稲田大学の創立者でもあります。

記念館の2階には早稲田大学に係る展示物が半分を占めます。

早稲田大卒業の著名人のメッセージも紹介されていました。

 

大隈重信が唱えた言葉です。

 

「諸君は必ず失敗する。ずいぶん失敗する」「成功より失敗が多い」の言葉には

救われる気がしました。飛び出すハート

これこそ、大隈重信記念館(=大隈重信)が伝えたいことだったのではないかと

勝手に解釈しました。

 

また、勉強になりました。照れ

 

・・・次は佐嘉神社に向かいます。

 

 

  倉敷美観地区を訪れた感想

岡山県の倉敷美観地区にいきました。車

倉敷は単に雰囲気が良いだけの町ではなく、

江戸時代からの歴史と地元の方々の努力により作り上げられた町であると強く感じました。

 

観光客で賑わっていますニコニコ





  外国人客が多い

そのためか、欧米やインド、中東アジア、中国韓国の観光客が目立ちました。

江戸時代以降の庶民の街並みが残されており、日本を感じる良い場所ではないでしょうか。ニコニコ

 

 

  倉敷美観地区は広い

 倉敷美観地区は川沿いの風景が有名ですが、

 倉敷美観地区は案外広く、歩いてみると結構時間がかかります。見ごたえ歩きごたえ十分よだれ

 


 上の写真は、高台にある阿智神社の境内から見た風景です。

 とおくに近代的ビルがみえますが、それより手前まで美観地区(あくまで一部)です。

 

 

 歩いても歩いても、しっくい壁のレトロな建物が続くことに驚きです。電柱もなく雰囲気は良いです。

 

 ほとんどの建物は営業中、どんな裏路地にも店があり活気を感じます。

 顧客満足度向上にまい進されている地元の方々の熱量を相当感じました。

 

 

 江戸時代のコンビニ「ろう村」よだれ

 

 倉敷の繊維を使ったスヌーピーやミッフィーのお土産屋も繁盛ニヤリ

 

 

  倉敷は干拓地

 倉敷の江戸時代まで離島でした。(児島地区も離島だったのですね)

 江戸・明治以降に干拓により段階的に埋立地になりました。

 

 もともと海だったため、塩分に強い綿やイ草などの作物の栽培が盛んになりました。

倉敷は繊維で栄えた歴史をもつ街です。祭


今は倉敷デニムが有名です。日本


  倉敷アイビースクエア


 倉敷アイビースクエアは、元々繊維工場として大原孫三郎が創業した倉敷紡績所(現クラボー)を利用した美観地区の名所の一つです。

外観も味があり、内部は店舗や休憩所もあります。


  マスキングテーププランド「mt」


歩いていると「mt」の文字を良く見かけます。


倉敷の老舗「カモ井加工紙」の和紙の工業用テープに魅了された東京の女性3人から、デコレーション化したものを製造してほしいとの熱意から、文具ブランド「mt」が誕生したそうです。


マスキングテープ屋もあります

  

 倉敷の歴史を知ることができ、勉強になりました。

 

 

先日、奈良の平城宮跡を訪れてきました。

西大寺駅から、朱雀門大路の入り口まで歩きました。結構遠いびっくり

 

  朱雀門

朱雀門大路の南側から北をみると、山や建物がなく、広大な敷地に空が広がり、朱雀門がそびえ立つ光景は圧巻。

広大な敷地には、ボール遊びなど楽しむ人々がちらほら。ほのぼのした光景です。

 

   遣唐使船

南から朱雀門に向かって左手にまず目を引くのが、復元された遣唐使船です。

 

実はこの船、当時の詳細な設計図が残っているわけではなく、当時の絵巻物などから「想像」して復元されたものなのだとか。

当時は大陸横断できる確率は低かったらしいので、現代の宇宙に旅立つ感覚なのではないかと。国家を背負っているとは言え、まさに命掛けであることが想像できます。

空海も遣唐使に同行していますが、奇跡の帰国だったと思います。

 

   平城京跡いざない館

 

次に「平城宮跡いざない館」で勉強。

ここはまさに、奈良時代の百科事典。精巧なジオラマや、当時の暮らしを伝える展示が凝縮されていて、見どころ満載。

ここで予備知識を入れてから広大な跡地を歩くと、ただの原っぱに見える場所にも、かつての役所や人々の営みが見えて、風景がかわります。

 

  平城京は広い

 

今いるところは平城京の一部である「平城宮」です。平城京は東西は西大寺~東大寺、南は大和郡山市まで広がっており広大です。

復古した平城宮跡も実は写真の左側のエリアに過ぎず、現地を実際に歩き、その広さを実感しました。

 

  遷都

藤原京からわずか16年で移り、その後も聖武天皇の時代には恭仁京や難波京へと遷都が繰り返されました。

当時は天然痘など疫病の蔓延、大地震、飢餓の三重苦に天皇も庶民も苦しめられたため、仏教の信仰を進め、東大寺の建立に至ったそうです。

 

   区画の原型がほぼない

当時の「平城京」は碁盤の目のように区画整理された都市でした。

 

しかし、現代の地図を見るとその面影はほとんどありません。

その大きな理由は、平安京(京都)への遷都後に、次第に廃れます。

とどめは豊臣政権下で行われた「太閤検地」によるものでした。

秀吉は、歴史的な区画よりも「米がどれだけ獲れるか」という生産力を重視しました。

そのため、かつての都の整然とした区画は農地として再編され、「リセット」されてしまったそうです。凝視

京都の平安京も太閤検地の対象となりましたが、都市として整理されたことにより、ほぼそのままの区画が今も残っています。ニコニコ

 

  衣装

 

当時の衣装も展示されています。

 

聖武天皇の衣装です。

当時の中国大陸(当時は唐)の文化が色濃く反映されています。

三国志を思い出しました。

 

   大極殿

 

 

 

 

 

ここは天皇が祭事に利用した第一次大極殿。

ここまで歩くと、ほぼ人がいません。寒くて天気が良くなかったからかも。にっこり

 

 

 

   西大寺駅前といえば

 

 

 

西大寺の西口に向かうと、観たことがある風景が広がりました。

ここは、2022年7月8日に安倍元総理が暗殺された場所でした。

ノーマークだったので、びっくり。

人通りが多かったものの、手を合わせてきました。

 

陰謀論かもしれませんが、本当の犯人が近くの駐車場から狙撃した可能性もあるとも。

写真で見るより結構違い。狙撃は可能だったかも。キョロキョロ

 

しかし、世界のリーダー安倍元総理がご存命であれば、歴史はまた違ったものだったと確信しています。

 

 

 

そんな思いを馳せながら、奈良を後にしました。

 

 

 

  世界最古の木造建築、法隆寺へ

 

先日、奈良の斑鳩(いかるが)にある法隆寺を訪ねてきました。 

中学の修学旅行以来40年振りです。

当時は無学なため、バスで連れてこられて、奈良のどこかわからず、近所のお寺との違いも判らず。。。てへぺろ

 

しかし、年齢を重ね、歴史を学ぶと、飛鳥時代から続く歴史の重みと、日本人に生まれたありがたみを感じるようになりました。

 

  聖徳太子の想いに触れる

 

法隆寺は、言わずと知れた聖徳太子(厩戸皇子)ゆかりの寺院です。

太子は「和を以て貴しとなす」という言葉を残しましたが、後世の日本人の礎として日本を形成していると感じます。

 

ずっと「法隆寺=五重塔」と思っていましたが、五重塔は法隆寺の一部の建築物にすぎません。

法隆寺の境内は東西に広く、実際に訪れて歩いてみると結構広いです。

 

中門に立つ金剛力士像の力強い眼光。子供は怖いでしょうね。えーん

 

 

  1400年の時を超える「建築の奇跡」

 

西院伽藍、大宝蔵院、西院伽藍の拝観は有料です。

殆どが国宝かつ重要文化財、世界文化遺産。びっくり

 

法隆寺といえば、世界最古の木造建築群。

今回、間近で見て特に感動したのがその「造形美」と「力強さ」です。

 

  • 西院伽藍 (さいいんがらん)

中門を入ると、

どっしりとした構えの金堂や、空にそびえる五重塔、本堂があります。

仏教を広めるために、建立されたものです。

 

釘を使わず木材を組み上げる「組み物」の複雑な構造は、現代の建築家も驚くほどの計算と技術だそうです。

 

軒下を支える柱に巻き付く龍の彫刻など、細かな装飾の一つひとつに、当時の職人たちの拘りを感じます。

 

  • 大宝蔵院(だいほうぞういん)

 中は撮影禁止でした。聖徳太子に纏わる貴重な史料が多く展示されていました。

 

  • 東院伽藍 (とういんがらん)

中に入ると、八角形の堂々たる姿が特徴的な「夢殿(ゆめどの)」。

聖徳太子を供養するために建立されたものです。周囲を歩くだけで背筋が伸びるような神聖な雰囲気です。

 

 

  光と歴史が織りなす風景

 

境内で立ち止まり、ふと空を見上げると冬の青空が広がっています。

境内の大きな樹木の隙間から差し込む木漏れ日と、静寂のなか、心地よい風の音と樹木の葉音だけ響きます。

このシチュエーションは相当癒されました。ニコニコ

教科書で見る「知識としての法隆寺」ではなく、実際にその場に立ち、古い木の香りと風を感じることで、日本文化の源流に触れられた気がします。

 

 

 

つぎは、平城京に向かいます。

 

 

福岡県古賀市の菜の花まつりが3月15日に開催されますが、

すでにもう十分に見ごたえがある状態にまで咲いています。

観光客もぼちぼち増えています。

そばを通ると、菜の花の香りが良いです。

 

菜の花の香りには、ストレス軽減やリラクゼーション効果があるそうですよ。

 

奈良に住む従妹に会うために奈良県へ向かいました。

 

新幹線はよく利用していますが、偶には違うルートで行こうと思いたち、

名門大洋フェリーで門司港→大阪南港の便を利用しました。

フェリー宿泊は中学生の修学旅行以来。40年ぶりです。

 

中学生当時の修学旅行ではザコ寝エリアで寝ましたが、

いい大人だし、私のいびきが周囲の迷惑になってはいけないので、

ファーストSという個室を予約しました。

船内の設備はどこも綺麗で十分です。

40年も経つと、だいぶ進化していますね。

 

部屋に入ると携帯電話は圏外になりました(キャリアは楽天)。

WiFiは使えるけど回数制限があるので、オフラインは覚悟しましょう。

乗船前にアマプラ映画をダウンロードしていたので、暇はつぶれました。


ここは門司港からの出港直後。

 

夜中の4時に目が覚めて甲板にでてみました。

北方面は岡山あたりと思われますが真っ暗です。

冬の波風の音に包まれて夜中の海はさみしさを感じます。

 

 

朝8時30分に大阪南港に到着。

大阪湾は船の往来が多く、流通業界の活気を感じました。

 

 

  仁徳天皇陵に向かう

 

以前から、仁徳天皇陵古墳にはいきたいと思っていたので、今回はチャンス。

大阪南港からニュートラムに搭乗して、堺市まで向かう。

そもそも「ニュートラム」は福岡近郊の住人にはなじみがなく、何のことかわかりませんでした。

「モノレールみたいなもの」ですね。構造は決まった道を走るバスみたいなもの。

 

 

仁徳天皇陵の大きさを実感したくて、三国ヶ丘駅でおり、拝所まで歩きました。

 

実際に歩くと確かに長い!一人のお墓がこんなに大きいなんて!

古代の建築機材でここまで作るのは如何ほど大変だったことか。

 

道中は、ランニングする人が多くいて、ランニングコースには良い感じです。

 

 

 

 

 

  百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)は世界遺産

 

まずは、拝所近くのビジターセンターで勉強しました。

施設内には壁一面に大画面で堺市の紹介がありました。大きいので迫力があります。

堺市が古墳を大切に守り、また鉄砲や刀など鍛冶が盛んだったことを学びました。

 

仁徳天皇といえば、「民のかまど」ですね。

「天皇は自分のことより、ただ民の幸せを祈念している」

(私は自民党の青山繁晴議員(今は代議士)から教わりました。)

 

この精神は今上天皇にも引き継がれ、多くの日本人の良心の根っこに宿っている

精神だと思います。これが日本人の民度の良さの基本となっていると思います。

 

 

その仁徳天皇の像。

鹿の耳から百舌鳥がでてきたところでしょうか。

 

 

拝所に到着。おーよく写真で見る場所だ。感激です。

ボランティアのガイドさんに丁寧に説明頂きました。感謝。

私の小学生時代(1980年代)は仁徳天皇陵として教えてもらったけど、本当に仁徳天皇が葬られているかは定かではない。

そのような話もあり、複数の呼び方があるそうですね。

 

天皇陵ということもあり、宮内庁が管理しているそうで、発掘調査自体が不敬にあたるので実質できないそうです。

他にも色々、勉強させてもらいました。

 

この後は、奈良県に向かいます。

つづく。

 

久々の長崎市出張でした。約10年ぶりです。

 

新幹線も開通し、長崎駅はかなり変わりましたね。驚き

 

これは途中の武雄温泉駅。

武雄温泉駅~長崎駅まで新幹線に乗り換えます。(いつ博多まで開通するのやら)

 

これは長崎駅。JR九州はマリオのキャンペーン中です。

 

これは、2016年2月に長崎駅前で撮った写真ですが、、

 

着いてびっくり。

2026年1月の長崎駅はこれ。大きすぎて全体像が撮れません。

駅前の敷地の広さは博多駅以上ではないか?

近年は九州各県の主要駅はリニューアルなど広く綺麗になっています。(大分、佐賀、熊本、鹿児島)

宮崎は行ったことないので良く知りません。てへぺろ

 

近くの工事中の囲いパネルに駅の全体像と歴史が描かれていました。

 

 

 

  平和公園を訪れました。

 

平和祈念像の周りには、鳩が羽ばたいており、晴天も相まって絵になります。

40年前に修学旅行で来た時、地面は砂利だったと思います。

公園の周囲には、原爆により被害にあった方々に纏わるモニュメントなど平和を祈念するものが多くあります。

 

 

 

奥に見えるのは原爆落下中心の碑です。

 

 

  原爆資料館を訪れました。

 

「なぜ原爆は長崎に投下されたのか?」について今更ながら勉強しました。

 

内部は撮影禁止でしたので、写真なしです。

 

・当初、原爆はドイツが開発中との情報もあり、アメリカが急遽着手し開発成功。

・アメリカは日本の軍事施設破壊を狙い、最終的に広島、小倉、長崎をターゲットにした。

 広島は西日本の軍事司令部、長崎は海軍関連の軍需工場、小倉は陸軍関連の兵器工場が多くあった。

・長崎には造船所や兵器製造する三菱の工場が多く、アメリカはこれらを狙った。

・広島は8/6に目的達成。次は小倉の予定だったが、当日は雲に覆われ地上が見えず、長崎に計画変更。

・投下地点は本来より北西に3km程度ずれたが、三菱工場を破壊する目的は達成した。

・広島はウラン型だが、長崎はプルトニウム型。

  広島原爆のリトルボーイに搭載されたウランは64kg程度の重さで1.6%(1kg分)の核分裂反応。

  長崎原爆のファットマンに搭載されたのプルトニウムは6kg程度の重さで16%の核分裂反応。

 

少し気になったことが一つ

館内で戦争に至ったビデオが視聴できるのですが、日本を被疑する内容でした。

ビデオ製作のクレジット見ると朝日新聞、毎日放送とのこと。なるほどなるほど。えー

 

  初めて知ったこと。その1

 

核物質は相当に小さなものであることを知りました。

しかも広島に投下されたリトルボーイの核分裂の割合の少なさは失敗といわれています。この威力で失敗とは。。ガーン

 

このような多大な犠牲を払う物質は危険と感じます。ちょっと不満

 

ちなみに、原子力発電所のウランは濃縮されていないので、同列に扱うには無理があります。無気力

 

 

  初めて知ったこと。その2

 

現在は福岡県が九州の最大都市ですが、明治維新後までは長崎が人口最大の都市だったとのこと。これは知らなかった。

 

江戸時代は長崎には唯一の貿易港があり、外交や貿易など文化の拠点。

坂本竜馬の亀山社中(のちの海援隊)による長州藩に武器調達で明治維新に繋がったり、明治維新後はグラバー商会と三菱により産業発展した地域でもある。

 

昭和初期からは、北九州に八幡製鉄所など重工業が発展したことで、やがて福岡県が最大都市となり、現在に至ります。びっくり

 

 

 

 年末に 午前十時の映画祭 の企画で「ニューシネマパラダイス」を観ました。

 

 

 

 

「ニュー・シネマ・パラダイス」上映作品詳細 - 午前十時の映画祭15 デジタルで甦る永遠の名作

 

 

 

 思い起こせば、35年程前に友人に誘われて地元のミニシアターで観ました。

当時はメジャーな映画館では上映されていなかった。と思います。

 

 観終わったあと、

 近くの席に座っていた怖そうな黒人男性がボロボロ泣いていたことが、今でも印象に残っている。キョロキョロ

 当時20歳の僕は「良くできた映画」だと感心はしたものの、泣くほどでもなかったという冷酷さ。。

 若さゆえの感受性の無さ。でした。口笛

 

 

あれから、35年。

 歴史を勉強したり、子育てももうすぐ終わる程度の経験を積み、苦労もそれなりに経た状態。

 映画館で見ると、当時は気づかなかった演出がわかるわかる。OKびっくり

 

 ・戦後の敗戦国イタリアは貧困状態。シチリアは尚更。ぐすん

 

 ・夫(戦死)なき母親。貧困と子育てに対する不安とイライラ。大泣き

 

 

 ・サルヴァトーレは幼少時代は司教に仕える祭壇奉仕者。母子家庭&貧困層に社会的に庇護される立場。ほんわか

 

 ・映画館は村の唯一の娯楽。文字を読めない人たちが外国文化を知る情報源。

 ・イタリアはカトリック派が多数を占める。カトリック教会が道徳の規準のため、キスシーン等はご法度。

 ・映写技師はブルーカラー階級。

 ・サルヴァトーレに「村には絶対に帰ってくるな」と進言したアルフレードの心情と、それを頑なに守ったサルヴァトーレ。

  完全版ではアルフレードがエレナを断絶させた動きも描かれているらしいですね。ぜひ観たい。

  当時、文化の中心は北部ローマにあり、アルフレードにとってのシチリアは「未来を求める者は去らねばならなかった土地」だった。

 ・本気で好きになったエレナ以上の人はおらず、女性と長続きしない。(恐らく)

 

泣きました

 幼少の頃の行動パターンや、青年期の失恋などの苦い経験は、私自身の経験とも重なり、今も切ない思い出。

 

 最終シーンで、ベテランとなったサルヴァトーレが自身の試写室でアルフレードが残したフィルムを視聴するシーンと、同じ座り方で疑似体験。最高の音楽も相まって自己投影し、自然に涙が流れました。大泣き

 

 

 

映画って本当に良いですね~。ウインク

 

岡山県岡山市にある「犬養木堂記念館」に行きました。

 

5・15事件で海軍将校に暗殺された「犬養毅」総理大臣。

「話せばわかる」で有名ですね。

 

犬養毅は、なぜ暗殺される至ったのか?

私は理由は漠然として知りませんでした。

 

もともとの犬養毅の印象は、

「何か悪いことして暗殺されたのだろう。殺される前に「話せばわかる」と助けを懇願した人」でした。

結果、その認識は違うということを認識するに至ります。

 

5・15事件の犬養毅を顕彰する 犬養木堂記念館

 

<記念館の駐車場>

「話せばわかる」が結構目立つ看板です。

 

<生家まえ>

大きな木は犬養が総理大臣になった記念に植えた楠の木。

樹齢約100年近くですね。

 

<生家>

綺麗で広い間取りでした。しかし昔の家は鴨居が低いですね。


<記念館>

生家の隣にある記念館

中の常設展(貴重な資料もある)は撮影禁止でした。

 

家系図。女優の安藤和津さんは、犬養毅のお孫さんです。ニコニコ

 

ちなみに

犬養家は、近くの吉備津神社の柱「吉備津彦命(キビツヒコノミコト)」の家臣「犬養健命(イヌカイタケルノミコタ)」の子孫にあたり、家屋も立派です。出自が良いですね。

 ・「吉備津彦命」は桃太郎のモデルとされており、その家臣「犬」は「犬養」の文字から動物に擬人化されたもの。

 ・きび団子は「吉備団子」です。

 

 

  犬養毅が政治家になるまで。

犬養毅は岡山県岡山市出身。号(別名みたいなもの)は犬養木堂。


幼少のころ勉学に励み、漢字の読み書きが得意となり、若くして新聞記者となりました。

西南戦争の従軍記者として書いた記事も人気を博し、35歳で政治家となりました。

 

 

  伊藤博文内閣の時代背景

明治維新後にできた、伊藤博文内閣の体制としては、「軍」は天皇直属の組織。

内閣からの軍への影響力としては「予算編成」程度。

 

  伊藤内閣のころの時代背景

明治維新前の時代は、ペリー来航による日米不可侵条約締結など、

民衆から信頼を失った徳川幕府には、もはや国体を統治する力がなく、

危機感を感じた薩長土肥らの藩が、倒幕を実現。

 

ガタガタな日本を統治するためには天皇に権力を預けることしか選択肢はなかった。

伊藤博文は軍を天皇直属の組織とした。

懸念がなかった訳ではないが、天皇の存在が軍暴走の抑止力として働くと考えた。

 

  軍の暴走

実際は、天皇は象徴にすぎず、直接政治に進言することもない。

軍は逆にそれを利用し、天皇の名を元に軍拡を進めた。

 

それに乗じて三井、三菱などの財閥は戦争による軍事産業の特需に沸く。(地方の景気は悪い)、軍への賄賂なども常態化したが、大した刑罰もない。ガーン

組織的にも内閣も軍を抑制できない。軍拡は進み続けることになる。ガーン

 

そこに犬養毅は異を唱え続けていた。プンプン

 

 

  そして事件は起きた

やがて犬養毅内閣が発足し、政府は肥大化した軍予算を削減しようとすると、「犬養毅は売国奴である」という認識が海軍、陸軍に蔓延し、(軍関係者やその家族らは生活が脅かされるので致し方ないが。。)

海軍将校から暗殺されたという構図。

 

誤解を解こうと、自分自身を狙撃し退散した将校を呼び戻そうとした犬養。驚き

総理大臣になった犬養自身は命を狙われる存在であることは理解と覚悟の上だったと感じる。物申す

総理大臣はそのような覚悟でないと務まらないものと信じています。びっくりマーク

 

  その後、大東亜戦争へとつながる

犬養毅が不在となり、益々軍拡が進む。

なおかつ、日本は負け知らずだったことから、マスコミや世論も戦争を賛美する空気。

やがて実質、軍が日本政治のトップに君臨。ガーン

その後、二・二六事件にも繋がり、

もう誰も太平洋戦争への道を止めることができない組織体制。ガーンガーン

これを止めることができるのは「日本が敗戦し痛い目にあうしかない」歴史的事実。ガーンガーンガーン


 

  敗戦の反省が今に繋がる

やがて太平洋戦争となり、日本は敗戦。

GHQからは、米国に歯向かわれないよう、戦争を起こしにくい組織に変更される。

・財閥解体。(軍拡を防ぐ目的)

 →しかし民生需要のために企業グループとして存在する。びっくり

・軍隊の廃止。

    →やがて自衛隊が発足する。てへぺろ

・陸海空の自衛隊は内閣府で一元管理。ウインク

 

人間は歴史に学びつつ、戦争に至らない意識と行動をとる必要がありますね。にっこり