森君、また

やっちまったな

あっちゃー

いままで、いろんな問題発言してきたけれども

これまでは国内だけですんだけれども

今回のことは、さすがにマズいでしょ

君の無責任な発言が、国際問題にまで発展してしまったね

 

https://youtu.be/dDbRkSEOajc

ニッポン無責任野郎   

 

一昨年のラグビーワールドカップ2019日本大会が大成功をおさめ

世界から、「素晴らしい日本」と称賛されたことに気を良くしちゃったんだね

いまでも君は、変わらぬ昔気質だよね、

世の中の変化というものについて行っていないというよりも

何も感じない人だったということは、前から分かってはいたけれども

それでは、過去の問題発言からは何も学べないわけだよね

 

2368. 森くん、いや森さん、あなたに初めて御礼を言いたい「ありがとう」RWC日本2019

 

1641. 納得いかなかった 森 喜朗氏のJRFU会長

 

 

にもかかわらず

政治家だった君を祭り上げ、いろいろなイベントや組織の重要な位置につけてしまったことへのつけが国際問題にまで発展してしまった。それは、我々国民の責任でもあるかもしれない

 

君の心の欲望というか野心というものは、俺は理解しているよ森君

早稲田大学でラグビーを始めようと思ったキッカケについても知っている

 

ラグビーへの思い入れと挫折

本人によれば上述のように勉強は出来なかったが、子供の頃より生涯に渡って強い関心を持ち続けることになったのがラグビーである。『森喜朗全人像』『あなたに教えられ、走り続けます』『自民党と政権交代』など森の著書やインタビューによれば、ラグビーに最初に興味を示したのは父の茂喜であり、戦時中トラック島空襲後同島に派遣された際には、部下を引き連れて捕虜と試合に興じて人心掌握にも有効活用したと言う[注釈 2]

戦後の1948年(昭和23年)、喜朗が小学5年生の時分に早稲田大学のラグビー部がOBである父を頼って根上町に合宿に来た。この時の練習試合を見て喜朗はラグビーに興味を持ち、早稲田大学に入りラグビーをやろうと決意し、練習に励むようになった。元々根上町からは学区制度上、ラグビー強豪で進学校の石川県立金沢二水高等学校には進学できなかった。そこで、金沢市立高岡町中学校(現金沢市立高岡中学校)に越境入学し、根上町から汽車通学していた。高岡町中学校にはラグビー部がなく、バスケットボール部に所属していた。中学校卒業後金沢二水高校に進学し、ラグビー部に入部。ラグビー部のキャプテンを務め、北陸三県大会で富山県立魚津高等学校と決勝戦にすすんだものの敗退した。その活躍から、父の知人であった当時の早稲田大学ラグビー部監督大西鉄之祐の薦めで 、早稲田大学第二商学部に入学する。しかし、全国から集まった強豪選手の中で、練習は過酷を極め、文化の違いもあり精神的にも参ってしまい、吐血のため通院したところ、胃潰瘍と診断された。医者から半年間練習を休むように言われた。半年もの間練習を休めばラグビー選手として終わりだと悟った森は入学から4ヶ月で退部を決心する。同時に、自分がラグビー部の推薦により大学へ入学した点を重く見て退学を決意するが、大西監督に「バカもの!」「ラグビーだけが大学じゃないぞ、森君。縁あって早稲田に入ったんだ。早稲田精神を身につけて少しでも世の中の役に立つ人間になろうと君は思わないのか。将来、ラグビーに恩返しができるような立派な人間になってみろ」と叱責され、退学を思いとどまった[2]。この大西監督の言葉は森に大きな影響を与え、第9回ラグビーワールドカップの日本招致を成功させた2009年に受けたインタビューでは、「その言葉はいつもわたしの心の中にあり、こうして協会の会長を引き受けているのも、W杯日本招致に責任を持ったのも、少しでもラグビーに奉公できればとの思いからでした」と語っている。(Wikipediaより)

 

ラグビーワールドカップを日本に誘致してくれた功績は誰もが、というよりも日本でラグビーをやってきた、或いはやっているラガーマンのすべてが、森君に感謝している。

俺は今でも感謝している。

そして、ラグビーに、大西監督にも恩返しができた。

 

でも、君は自分の着ている背広のボタンをつけ違えてしまったね

ただ、ラグビーをやっていたというだけで

たいした活躍もできたわけでもなく、ラグビー部に入ったはいいが文化の違いに驚かされ、そこに丁度ラグビー部を辞める言い訳が「胃潰瘍」という名の病名

良かったじゃあないか、やめる理由ができて

君は、いつも自分の意志で何かをしてきたわけじゃあない

ラグビーを始めたのは父の勧め

その後、弁論会に入ったのも、同郷の早稲田大学大学院の先輩の勧め

その後も政界に入るきっかけも成り行きに俺には見える

そこから、自欲が芽を出し始め政治家として出発し始めた

苦労はしたと思う、何もないところから始めたわけだから

特に頭がいいわけでもなく、人脈があるわけでもなく

金もあるわけでもなく

何とかやって来れたよね

でも君は、ここで何かを忘れてはいないか?

自分のこころに聞いてみろ

ラグビーというスポーツは「試合相手を認め、尊敬してはじめてノーサイドとなる」ということを・・・

 

それは、ラグビーに限らずだ、何故ラグビーをやっていた人間が社会で認められ必要とされる人材とまで言われるのか

「ノーサイドの精神ばかりではなく、自分の責任を果たし、それ以上に仲間を信じ同じ景色を見ながらお互いを大切に思うという心があるから」なんだということを森君は忘れているというよりも、そこまでラグビーを突き詰めては来なかった悲しさがある

でも、君には身近に君を信じ、同じ景色を見てきた最愛の奥様がいるじゃないか、君はそれに気づいているのか

 

わかるか?森君、君の奥様のことだよ早稲田の弁論会のときに知り合った

きっと何も言わずに黙って君についてきたんだと思うよ

もちろん、君も奥さまを信じてきたことだろう

が、しかし

それを、当たり前だと思ってしまったところが

この問題発言に至った根幹だと思うよ

 

思うに君は、周りの奴らが羨ましかったんだろう

地位やお金のある奴らが

表面では、それなりに繕い付き合ってきたんだろうし

でも、心の中ではやっかみ軽蔑していた

そしていつの日か「見返してやる」という野望が湧いてきた

 

時を経て、何とか名の通った「政治家」としての地位にたち

政界のトップにものし上がり2期も勤め上げた

政治家としての背広をまとった君は

さぞかし嬉しかったことだろう

心の中で「叫んだ」ことだろう「やったぜ!俺!!」って

 

人間は、一度味わった最高のステーキの味を忘れることは出来ない

「自分は、いつまでもこのステーキを食べ続けたい」という欲望が

何も学ぶ余裕すらなく突っ走り、誰も文句を言ってくる奴もいない中で

君の着ている政治家という背広のボタンをつけ違いをさせたんだろう

ただ、ラグビーをやっていたというだけで

逃げたはずのラグビーのおかげで、ラグビーに対する強い思いすらないのに

いつしか

ラグビーに対する思いを語り、繕い、それが自分の強い思い込みに変わり

その思い込みが自らの「ラグビーに対する愛」と変化し

「ラグビーなくして私の人生はない!One for All, All for One」とラグビーを語り

再び表舞台に身を置き「最高のステーキ」を味わうことができた

そして、何も学ぶこともなく、そのまま「我が道」を進んできたことだろう

 

けれども、どうだろう森君、それも

もう終わりにしようじゃないか

なあ、君もすでに83歳という年齢だ、十分だろう

これからは

あとどれくらい日本という素晴らしい国の景色を眺めていけるんだろうかということを考えようじゃないか

君が誘致したラグビーを通して「日本という国はなんて素晴らしいんだ!」と世界に言わしめた、この国を

いままで君を支えてきた奥さまと一緒に

日本という国を今一度楽しんでみてはいかがだろうか

いや日本とは言わず、世界にも足を運び

日本という国を改めて違う立場から思いを巡らしてみてはどうだろうか

 

俺は、以前ずっと

森君を「森さん」とは言わずに来たけれども

ラグビーワールドカップを日本に誘致してくれたことに感謝の意を示し

その後は「森さん」と言わせてもらったが

問題発言が国際問題にまで及び日本の信頼を失わせたことに憤りを感じ

再び「森君」といま呼んでいる

 

君が政界を去り、そしていまいる立場を後進に譲り、何もなかったころの自分にまた立ちもどる

そう、何もなかったあのころ「将来への志」を夢見てともに歩んできた奥様と一緒に温泉につかり、卓を囲み晩酌をしながら

「これまで、ありがとう。いろんなことがあったけれども、なんとかやってこれたのは君のおかげだ。本当にありがとう。これからもよろしく頼みます。」と心の底から伝えることができたら、俺はまた

森君を「森さん」と呼ぶことにするよ

 

永遠のラガーマンより

「前へ」

 

 

お~い「森く~ん」久しぶり~ぃ

 

え~っと、君は誰だったかな?

んっと、思い出せないなあ

あ~、そうそうあの時のぉ

いや違う

え~っと・・・