あるニンマ派修行僧との会話
ここんとこンガッパと過ごす時間が多く、あまりにも心にストンと落ちる説得力のある話がたくさんあるので、(ただ飲んでいただけではないw)ここらでンガッパ語録としてまとめて書いてみようと思うんだけどうまく書けない…。
そういえばそれを暗示するかのようにンガッパに会話の最中こう言われたっけ。。
「お前は今、オレの話したことを理解した。なぜだかわかるか?それはオレが心から伝えようと思ったことをお前の心が受け止めたからだ。言葉というものはあくまでもそれを媒介するものにすぎない。その証拠にお前はいま理解したことを言葉で表そうと思ってもきっとできないだろう。」
(ううっ…確かにできない。。これがヴァジラヤーナなのかあぁあああっ!!!)
頑なに拒むティーチングについては、
「もしオレが教えたい事の半分しか教えることが出来なかったとしたらこれは学び手に半分の能力しか無かったのではなく、オレ自身が半分しか教える力が無かったことになる。教える側の能力不足で半分しか学ぶことができなかった人は大変不幸であり、またその半分だけの理解が独り歩きするのはいらぬ混乱を招き、教えにとっても大変危険なことである。分かるか、ティーチングは凄くリスキーなんだ。だからオレはやらない。」
危険、については聞かなかったが、こんな話を思い出した。
ダルツェドの強制収容所である時、7人のリンポチェが申し合わせたように同じ日に亡くなった。自殺のような外的要因は見当たらず、どうも意識的な決定によるものらしかった。 これには唯物論の中国人看守たちもさすがに驚嘆したらしい。
ということは、あるレベルまで習得した者は意識的に魂を体から外すことができるということだろうか? もし可能だとしたら、そこまでコントロール可能な教義を中途半端にインストールするのはそりゃあ危険だわな…。
なのでティーチング、ではなくディスカッションという形で最近始めたそうなのだが、ここにも悩みがあり、曰く、
「本来、心から心へ伝えるものなのだが、オレは日本語が出来ないのでドルマが通訳する形になる。そうなるとそこで言葉に置き換わってしまい、コネクションがカットされてしまう。。ブロークンでもミックスでもいいからダイレクトに伝えたいし直接感じ取ってもらいたい、そうじゃなければやる意味がない。」
なるほど。つまり通訳を介することによって、顕教的な教義になってしまうということか。 でもこれは言葉だけの問題だけではないと思う。人は無意識のうちに言葉に頼りすぎて本能で感じ取ろうとする努力を怠っているような気がする。
ディスカッションご参加の皆さん、
D-laが通訳しますが、ンガッパが話している時は例え言葉が分からなくても心で感じ取る努力をしてみて下さい。きっと伝わり方が変わってくると思います 。
ちなみに当方、伝わった事はうまく言葉で書けないが、考え方について教わったことは結構書けそうな気がする。 でもそんなの書いてたら八月の日記が“ンガッパ祭り”になってしまうよなぁ。。半生もちょーウケるので書きたいしw
そういえばそれを暗示するかのようにンガッパに会話の最中こう言われたっけ。。
「お前は今、オレの話したことを理解した。なぜだかわかるか?それはオレが心から伝えようと思ったことをお前の心が受け止めたからだ。言葉というものはあくまでもそれを媒介するものにすぎない。その証拠にお前はいま理解したことを言葉で表そうと思ってもきっとできないだろう。」
(ううっ…確かにできない。。これがヴァジラヤーナなのかあぁあああっ!!!)
頑なに拒むティーチングについては、
「もしオレが教えたい事の半分しか教えることが出来なかったとしたらこれは学び手に半分の能力しか無かったのではなく、オレ自身が半分しか教える力が無かったことになる。教える側の能力不足で半分しか学ぶことができなかった人は大変不幸であり、またその半分だけの理解が独り歩きするのはいらぬ混乱を招き、教えにとっても大変危険なことである。分かるか、ティーチングは凄くリスキーなんだ。だからオレはやらない。」
危険、については聞かなかったが、こんな話を思い出した。
ダルツェドの強制収容所である時、7人のリンポチェが申し合わせたように同じ日に亡くなった。自殺のような外的要因は見当たらず、どうも意識的な決定によるものらしかった。 これには唯物論の中国人看守たちもさすがに驚嘆したらしい。
ということは、あるレベルまで習得した者は意識的に魂を体から外すことができるということだろうか? もし可能だとしたら、そこまでコントロール可能な教義を中途半端にインストールするのはそりゃあ危険だわな…。
なのでティーチング、ではなくディスカッションという形で最近始めたそうなのだが、ここにも悩みがあり、曰く、
「本来、心から心へ伝えるものなのだが、オレは日本語が出来ないのでドルマが通訳する形になる。そうなるとそこで言葉に置き換わってしまい、コネクションがカットされてしまう。。ブロークンでもミックスでもいいからダイレクトに伝えたいし直接感じ取ってもらいたい、そうじゃなければやる意味がない。」
なるほど。つまり通訳を介することによって、顕教的な教義になってしまうということか。 でもこれは言葉だけの問題だけではないと思う。人は無意識のうちに言葉に頼りすぎて本能で感じ取ろうとする努力を怠っているような気がする。
ディスカッションご参加の皆さん、
D-laが通訳しますが、ンガッパが話している時は例え言葉が分からなくても心で感じ取る努力をしてみて下さい。きっと伝わり方が変わってくると思います 。
ちなみに当方、伝わった事はうまく言葉で書けないが、考え方について教わったことは結構書けそうな気がする。 でもそんなの書いてたら八月の日記が“ンガッパ祭り”になってしまうよなぁ。。半生もちょーウケるので書きたいしw