東日本大震災を振り返って①
今から一ヶ月前の3/11、観測史上最大のマグニチュード9.0の大地震とそれに伴う大津波が東北地方を襲い、沿岸部を中心に壊滅的な被害をもたらした。地震のエネルギー規模は阪神大震災の1450倍、牡鹿半島は東南東方向に半島ごと5.3mずれ、津波は宮古市の田老地区で最大37.9mに達し、今日11日現在の死者・行方不明者は合わせて2万7493人に上る。
被災から一ヶ月が過ぎ、いまだ余震は続くもののなんとか自分の方は日常生活に戻りつつあるので、ぼちぼち震災の備忘録代わりにブログを再開したいと思う。
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あの日自分は、病院に薬をもらいに行った帰り道、国道45号線を坂下交差点方面へ車を走らせていた。すると「ギュルギュルギュル」という聞き覚えのない音が携帯電話からなり“緊急地震速報”という文字が表示された3秒後、突然激しい揺れに襲わた。時間が経つにつれ揺れは勢いを増し、激しい横揺れでガッタンガッタンと車のタイヤが浮きはじめたので(このままでは車ごと転倒してしまう!!)と思い慌てて車外に出たものの、道路が揺れという言葉では表現できないほど海面のようにうねっており、ゴーッというこの世の終わりのような物凄い地鳴りの中、立っているのもままならなかった。
長い揺れが収まった後、(大変なことになった、とにかく一度事務所に戻ろう、急がないと帰れなくなる)と思い急いで事務所に向かったのが停電で信号機は動かず、坂下のガード下には新幹線の送電線の電柱が折れてコンクリートが散らばっており、屋外に避難してきた人々の前をけたたましいサイレンを鳴らした緊急車両が何台も行きかい辺りは騒然としていた。
ようやくたどり着いた事務所は建物は無事だったものの室内はメチャクチャになっており、とりあえず火元の確認だけ済ませて今度は急いで自宅に向かった。
自宅は幸い無傷で、宅内も同居している両親がそれぞれの守備位置を鉄壁に守り通したおかげで食器棚の中のグラスが数個割れただけの被害で済んだ。
家族と飼い犬と自宅の無事を確認し、ほっと一安心したところで(ヤバい!!断水する!!)と我に返り慌ててありったけの水の汲み置きを開始するとやがて水は茶色く濁り始め10分足らずで断水。とりあえず一週間はある物だけで自宅籠城することを決め、その準備に取り掛かった。その間、かけっぱなしにしていたラジオからは信じられない情報が次々と伝えられていた。
「三陸沿岸部に到達した津波の高さは最大15m」
耳を疑った。聞いたことがない無い高さだった。
ウチは母方が南三陸町出身で一昨年無くなった祖母の墓も南三陸町にある。幾度となく津波の被害にあってきた町だが15mは甚大な被害を及ぼしたチリ地震津波の三倍以上の高さだ。かっちゃんおばちゃんたちは大丈夫だろうか?すぐに親戚の安否が頭をよぎった。
通信は遮断され停電でテレビは見れず、頼りの綱はラジオだけだった。停電で漆黒の闇の中、石油コンビナートが爆発炎上している東の空だけ微かに明るかった。
その日はロウソクの火を頼りにラジオをつけっ放しで寝た。と言っても刻々と伝わってくる深刻な事態に聞き入りほとんど眠れなかった。同じ区内の車で15分で行ける距離に1000人単位の遺体が打ち上げられていると聞いて信じられるだろうか?沿岸部に住む友人知人親戚の安否やライフラインが寸断されている中、どこまで備蓄食料と燃料だけで生活できるかなど悶々と考えながら翌朝をむかえた。(つづく)