チベせん日記 -21ページ目

東日本大震災を振り返って②

翌朝。お向かいのHさんがご近所中におにぎりやパンをたくさん配り歩いてた。理由を聞くと、息子のS君がファミリーマートに勤務していて、「この震災で工場の食料品は配送できなくなってしまったので社員は好きなだけ持って帰ってご近所に配ってよい」と会社側から言われたので車に積めるだけ積んで持って帰ってきたとのこと。我が家は30個ほどおにぎり&パンを分けて頂いた。ただ昨日確認したところ我家には、

・飲料水60L

・下水用水150L

・灯油60L

・カセットボンベ10本

・ホワイトガソリン1L

・米一俵

・醤油三升


・味噌10kg


・たくあん5kg、梅ぼし5kg

その他、肉、野菜、魚等生鮮食品及び冷凍食品、保存食etc... 水さえ絶やさなければ数ヶ月は生き延びられる蓄えがあることがわかり、もう十分足りているので頂いた食料は足りていないあたりに配ってこようと近所に住むTの所に持っていったのだが、T初め自分の友だち連中は助けがいが無いと言うか、サバイバルに強い奴らばかりなので何一つ物資に困っておらず、おにぎり程度で後日恩着せがましいことを言ってやろうという自分の目論見みはあっさり崩れ去った。

バス通りに面したTの家の前で立ち話をしていると、通りかかる友だち連中が入れ替わりたち替わり寄って行き、その都度共通の知人の安否情報や互いに持っている物資内容を確認し合った。友人の一人で地元で総菜屋をやっているtakkaが「停電で冷蔵庫の物どうせダメになってしまうから午後から炊き出しをしたいのでみんな手伝ってくれないか」というので午後から手が空いた者からtakkaの店に集合することを確認しいったん解散。自分はこの日の午前中は事務所の片付けに費やした。

14時頃takkaの店に行ってみるとみんな揃っていて既に仕込みを開始していた。店のシャッターは半開きにしていたのだが、食べ物を求める人がそれでも何か売ってもらえないかと訪ねてきた。この時点で街はすでにゴーストタウンと化していた。

15時過ぎに炊き出しを始めるとすぐに人が並んだ。初めは売り物だったお惣菜のパックと抱き合わせで揚げ物を配っていたのだが、それが切れると揚げ物がすぐに追いつかなくなり、それに反比例するかのように炊き出しに並ぶ列は増えていき、揚げても揚げても追いつかなかった。そのぐらい今後の食料供給のめどが立っておらず、また寒さの続く三月の東北で皆温かい食べ物が食べたかった。

300食は配っただろうか、準備した食材は17時には底をつき、この日の炊き出しはそこで打ち切った。あと言う間の二時間だった。

ギャラ代わりに家族の人数分串カツをもらって帰り、もらった串カツは今朝のおにぎりのお礼に向かいのSさんの家に差し上げてきた。

外は停電で真っ暗な為、星がとてもきれいだった。一月に訪れたアンダームスタンほどではなかったか、電気が無いだけで仙台でもこれだけ星がきれいに見えるのは意外だった。東の空だけコンビナートの火災の炎でまだ明るかった。