アジャ・リンポチェ・インタビュー
2008年にアジャ・リンポチェが来日された際、『大法輪』に掲載された翻訳家・三浦順子先生によるインタビュー記事を下記に添付致します。
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フリー・チベットはフリー・チャイナから
アジャ・リンポチェ・インタビュー
弱冠十五歳のカルマパ十七世が冬のヒマラヤ越えをしてインド側に亡命をはかり、全世界を驚かせたのは二〇〇〇年の正月のこと、だが、それより遡ること二年前、チベット仏教界の――いや、チベットのみならず、中国仏教界の大立者がひっそりと米国に亡命した事実はあまり知られていない。亡命当時、アジャ・リンポチェは中国人民政治協商会議委員、中国仏教協会副会長、青海省仏教協会会長などの要職を兼任していたうえ、名刹クンブム寺(塔爾寺)の僧院長であったため、中国政府からすると「使える」少数民族出身の愛国者、大切な持ち駒であるはずだった。
それが米国に密かに脱出、しばらくは沈黙を守っていたものの、二〇〇〇年三月には、ロサンゼルスの国際宗教委員会による「中国における宗教の自由に関する公聴会」で、長きにわたるチベット弾圧の実態を赤裸々に証言したのだから、中国政府にとっては頭を殴られるような衝撃であったに違いない。二〇〇八年のチベット騒乱に関連して逮捕された者たちは、ダライ・ラマとともにアジャ・リンポチェと繋がりを疑われ、しつこく尋問されている。逆に本土のチベット人は、アジャ・リンポチェが中国側肝いりのパンチェン・ラマを認めることを拒否して亡命したことに内心大喝采、その人気はうなぎのぼりだという。
アジャ・リンポチェ自身は亡命後、二〇〇五年より、ダライ・ラマの長兄タクツェル・リンポチェがインディアナ州ブルーミントンに創設したチベット・モンゴル仏教文化センターのディレクターの職に就いている。二〇〇八年秋、在日モンゴル人が有志を募ってアジャ・リンポチェを日本に招聘――というのもアジャ・リンポチェはチベット仏教界の重鎮であるだけでなく、青海モンゴルの遊牧民の出身であるゆえに、モンゴル人仏教徒からも篤く信仰されているからなのだが、来日したリンポチェは全国を精力的に講演してまわった。中国国内なら、これほどの高い地位にある僧にたやすく会って、会話を交わし、祝福をもらうことなどとても無理と、在日の内モンゴル人たちは感激の面持ちであった。さらに、時同じくして来日したダライ・ラマがまる一日費やして、中国のマスコミや学者、一般の人々を集めて対話と講演会を行ったさい、中国語への通訳も務めてもいる(リンポチェ自身は蔵・蒙・中・英語に堪能)。
ちなみに転生活仏としてのアジャ・リンポチェ(中国語表記では阿嘉呼図克図)は日本となかなか縁がふかく、先々代の六世(数え方によっては十九世)は一九〇一年(明治三四年)、東本願寺の招待を受け北京の雍和宮の貫主として来日している。一ヶ月にわたり日本各地をまわり、貴衆両議院から寺院仏閣、大学から近代工業施設にいたるまで広く見学、宗教者のみならず、軍人や政治家とも交流をもったという。当代のアジャ・リンポチェは、子供のころ、先々代が日本からもちかえった土産物が虫干しされるのを目にしたことがあると話されていた。もちろんみな文革で失われてしまったそうだが。ちなみにこの招聘に奔走した寺本婉雅(てらもとえんが)はその後もさまざまな形でアジャ・リンポチェ六世と交流を深め、たびたびクンブム寺のその公邸に滞在して、時に仏典の研究に励み、時に外務省や軍参謀本部と連絡をとりつつ、英露清のグレートゲームの焦点でもあったチベットへの働きかけを行っていた。
当代のアジャ・リンポチェは二十世紀後半のチベットの苦難の歴史の生き証人である上、高位ラマしか知りえない中国政治の裏の部分に触れてきた人物である。以下は来日時のインタビューである。
――まず、リンポチェのご出身と、どのようにして先代のアジャ・リンポチェ転生者に認定されたのか教えてください。
A 父方の祖父はチベット人のもと僧侶だったそうですが、私自身は青海湖の北方平原のモンゴル人の遊牧民の出身です。私が生まれる前、母は「空に暗雲たれこめ、雷鳴が轟くとともに、一頭の龍が目の前にあらわれる」という吉夢を見、またチベットでは虎は生き物の王といわれますが、寅年の寅日の寅の刻に生まれたため、なにか特別なしるしをもって生まれた子供であるとみなされるようになりました。
ちなみにアジャ・リンポチェのアジャとはその地の方言で「お父さん」の意味です。ゲルク派の開祖ツォンカパは自身の転生者は認めませんでしたが、ツォンカパの父母の転生者を探すことは認めました。そして父親の転生者がアジャ・リンポチェの系譜なのです。
私を故アジャ・リンポチェ七世の転生者に認定したのはパンチェン・ラマ十世(一九三八―八九年)です。候補者として十人ほどの名前がリストアップされていたのですが、当時わずか十四歳のパンチェン・ラマ自身がそのリストに目をとおして、即座に「ああ、この子供だ」といって私の名前にしるしをつけたとか。そのリストはいまだにクンブム寺に残っています。
――クンブム寺といえば、ゲルク派の始祖ツォンカパの誕生地に建てられた名刹、チベット・モンゴル・漢人の巡礼地として知られていますが、共産中国の支配下に入ってから、寺にはどのようなことが起きたでしょうか?
Aクンブム寺を含む青海省が共産中国の支配下に入ったのは一九四九年のことですが、しばらくは寺の行政に関与してくることはありませんでした。それが激変したのは、「民主改革」が導入された一九五八年からです(※「民主改革」とは封建農奴制廃止、宗教の排除、生産の集団化などを通じて社会経済構造の変革を試みたもの)。まず、工作隊と呼ばれる中国人幹部が何百人も寺に入りこんできて、僧たちは毎日政治学習集会に駆り出されるようになりました。また接収委員会なるものができて、寺の財宝や金目のものは次々と没収されていきました。それが頂点に達した頃、高僧の含め数千にのぼる僧侶たちは全員、寺の広い中庭に集まるように命じられました。私も大人たちに混じってその中いたのですが、見あげれば寺の屋根の上からは機関銃が狙っているし、武装した人民解放軍がまわりを取り巻いている。本来なら高僧たちの席であるステージのうえには、中国人幹部がずらりと並んでなにごとかを待ち受けている。と「革命に反対する抑圧者たちを打倒せよ!」という叫び声があがり、高僧たちが次々とステージの前に引きずり出されて、縛りあげられ、
唾を吐きかけられて罵倒され、打擲され、足蹴にされ--それからみなパニック状態です。混乱の中、みな次々と逮捕されていき、トラックに乗せられていずこかへと連れ去られていきました。その日一日の逮捕者だけでも五百名にのぼったといいます。その中には私の面倒をみてくれていた大人たちも含まれていました。
こうした公開のつるしあげ集会はくりかえし催され、私自身、強いられて、壇上で高名な先生を糾弾する羽目になったこともあります。その年の末までに、クンブム寺は閉鎖になり、僧侶の多くは搾取階級ということで、労働改造所や鉱山送りとなりました。残された僧侶も僧衣をまとうことは禁じられ、社会主義思想を学びつつ、畑仕事にかりだされることになりました。結婚した者も多かったですよ。少年僧はほとんど親元におくりかえされました。私は寺に残った数名の少年たちとともに、中国の公の学校に通うことになりました。もちろん宗教教育はかたく禁じられてしまた。
――寺に残られた理由は?
A それは私が搾取階級に属しており、政府としては吊るし上げにする対象が必要だったからですよ。話をもとにもどすと、チベットは貧しい国ですが、人が飢え死にするようなことはいまだかつてありませんでした。それが一九五九年には、政府の失策からひどい飢餓におそわれ、多くの人々が餓死していきました。
六二年から六六年にかけては、パンチェン・ラマが政府に「七万言の意見書」(中国政府のチベット政策の失態と、その結果生じた惨状を意見したもの)を提出したためか、少し締め付けもゆるみ、私自身パンチェン・ラマとともにタシルンポ寺におもむいて、久しぶりに仏教の勉強することができました。だが六六年から文革の嵐が吹き荒れはじめました。文革の前には青海省全体で、六百から七百の寺があったとおもいますが、そのうち残ったのは十五ぐらいです。クンブム寺も残りはしたものの、四十パーセントの建物は破壊されたのではないでしょうか。
――リンポチェはパンチェン・ラマ十世とかなり親しい間柄だったそうですが、十一世の認定をめぐり何がおきたのか教えてください。
Aパンチェン・ラマ十世が亡くなられたのは一九八九年一月です。その後すぐに、パンチェン・ラマ転生霊童捜索委員会なるものがつくられ、私のおじでパンチェン・ラマの専任教師であったジャヤ・リンポチェが委員長、チャデル・リンポチェ(後にダライ・ラマに通じたかどで逮捕投獄される)が副委員長、私は書記をつとめることになりした。中国政府ははじめのうち非常に協力的で、なんとダライ・ラマに相談してもいいといったのですよ!
――それは驚くべきことですね。
Aそれは文章にもきちんと記されています。その話を聞いたラマたちは欣喜雀躍、みな自分こそダラムサラへ行くと口々に主張したものです。これは当時の統一戦線工作部の部長・閻明復のおかげといってもいいでしょう。彼はパンチェン・ラマと親しく、チベットにも好意的でしたからね。ところが、同年の六月に天安門事件がおき、学生たちを支持していた閻明復は更迭されてしまい、新たな部長が就任して、すべてはご破算になりました。
一九九五年五月にダライ・ラマがゲンドゥン・チューキ・ニマ少年をパンチェン・ラマの転生者として認定すると、中国政府は激怒、その年の十一月になって私を含め高僧たちは北京に呼び出され、テレビ・カメラを前に、三つの項目を採択させられました。①ダライ・ラマの選んだ少年は、パンチェン・ラマの転生者として認めることはできない ②ダライ・ラマと通じたチャデル・リンポチェはパンチェン・ラマ捜索から排除され、非難されるべきである ③パンチェン・ラマの転生者は金瓶掣籤で選ぶべきである。これで転生者の認定に金瓶を用いることは決定的になってしまいました。
――九五年の十一月二九日にチョカン寺でおこなわれた金瓶掣籤の儀式にも出席されていますよね。
A 高位ラマはみな、出席するしか選択の余地がなかったのです。テレビなどの放映ではわからなかったでしょうが、実に異様な雰囲気でした。空港も、泊まっているホテルも、チョカン寺も軍隊にみっちり取り囲まれており、明日金瓶掣籤の儀式を行うが時間は不明、待機しておくようにと言われ、結局チョカン寺で儀式が始まったのは真夜中過ぎの二時でした。籤をひいたのはポミ・リンポチェですが、当人もいやだったでしょう。籤は細工してあって、どの子供を選ぶかあらかじめ決まってたと思いますよ。
―― 一九八年に米国に亡命されたのは、どういう理由からですか?
A中国側のえらんだ少年ギェンツェン・ノルブをクンブム寺に住まわせ、私を指導教師(ヨンジン)に任命しようとしたからです。中国にいるかぎり、それを断ることはできない。だから亡命するしかなかったのです。
――チベットの将来についてどう考えられますか。チベットが自由になる日は来るのでしょうか?
A「国外での支援者の方々は『フリー・チベット!!』と声を上げてくれますが、私が思うにまずは『フリー・チャイナ』なのではないかと。いつの日か、中国に真の民主主義と自由が生まれれば、チベットにも自由で平和な日々が訪れるのではないのでしょうか。
(二〇〇八年十一月東京にて)