野元甚蔵さん報告会Vol.2
夕方18:30から「地平線会議」の報告会に参加。
報告者は昨年の5月22日に引き続き野元甚蔵さん(93歳)。
なお、昨年の報告内容はコチラ↓
http://ameblo.jp/tibesen/entry-10267310168.html
昨年の報告会の時は、入蔵までの経緯で終わってしまったので、今年はチベットでどのようなことをやっていたことを中心にお話しされた。
陸軍特務機関からの任務は「できるだけ永くチベットに滞在しているだけでいい」という比較的緩いものだったそうで、モンゴル僧になりすまし、アンチン・フトクトの一向に紛れ込んで入蔵。
当初、シガツェのタシルンポ寺のハムドゥン・カムツェン(モンゴル僧寮)に滞在していた野元さんだったが、南京政府の高官・呉忠信がチベット入りすることを聞き、身の危険を感じてアンチン・ホトクトの荘園があるウジェンゾンという田舎に脱出。
司会の江本嘉伸さんから「遊牧のイメージが強いチベットだが実は圧倒的に農業で生計をたてている」との補足があったが、シガツェ界隈は特にツァンパの名産地として歌に歌われているくらい有名な穀倉地帯で、農学校出の野元さんはそこに滞在中、農民の目でチベットの農業をつぶさに観察。
その報告書はいつの日か確実に文化人類学の貴重な資料となることでしょう。
戦後、引き上げてきてからはチベット入りのことは黙して語らず、郷里で農協職員されていたそうだが、話さなかった理由は、
「特務機関員としてモンゴル人と偽ってチベットに入った私のことを日本人と知りながら手引きをしてくれた人、お世話になった人、そういう人がまだ生きていた。そういう方々に迷惑がかかるといけないと思い戦後もずっと黙っておりました」
とのこと。
そんな野元さんの貴重なチベット滞在経験が歴史の闇に埋もれず日の眼を見ることになったのは戦後39年経って郷里の鹿児島で再会した時のダライ・ラマ法王のお言葉。
「もうじゅうぶん時間がたちました。話しても迷惑をかけることはないでしょう。どうかあなたのその貴重な経験を本に書き記して下さい」
それが現実となったのはさらに十数年後のことなのだが、なにせモンゴル人になりすましているスパイなので記録を日本語でつけるワケにもいかす、すべて記憶してきたため、当時帰国してから報告書にまとめる時ですら神経衰弱になったというから、60年以上たってから一冊の本にまとめるのはそれはそれは大変だったことだろう。
※余談ながら「スパイ」でググるとウィキに木村肥佐生、西川一三両氏と共に野元甚蔵さんの名前もちゃんと記載されております。
その他、帰国してからこれまでの野元さんの半生をスライドショーでつづったものを見せられたのだがその中に北京時代の写真が何枚かあり、実は自分の祖父母が同時期に北京に住んでいたのだがそれが野元さんがお住まいだった徳勝門界隈なので、もしかして街角ですれちがったりしてたんじゃないかなぁと思うとなんだか不思議な気持ちになった。
そんな昭和時代の生き証人のような方に二度もお目にかかれて大変光栄でした。
野元甚蔵さん、これからもどうぞお体に気をつけて長生きして下さい。
戦後39年ぶりに再会を果たした時にダライ・ラマから下賜されたプラチナ製のベニサンゴの指輪。
戦後、日本で直しているため日本的な作りになっている。