昔々、あるところにイシキとムイシキがいた。
イシキは全盛期を迎えていた。
すべてを言語化し、この世のあらゆるものをデータにした。
イシキの究極はAIだった。
イシキは神になろうとしていた。
一方、ムイシキは別次元にいた。
イシキが頑張っている姿を見ながら、ムイシキは潮目が変わる瞬間を待っていた。
イシキは言った。
「俺は今、全盛期だ。これからAIがさらに進化する。俺は神になる」
ムイシキは言った。
「イシキ。君の世界はどんどん貧しくなっている。夏の匂いをどれだけ感じた? 虫の声を最近、聞いたか? そこに何を感じた? スクリーンばかり見ているんじゃないのか?」
イシキは言い返した。
「それは昭和の世界だ。今はそんな時代ではない。クリーンで効率的でコンパクトなワンタッチの世界だ。情緒など必要ない」
ムイシキは、ため息をつくと言った。
「君の姿を見せてあげよう」
ムイシキはイシキの姿を見せた。
イシキは光るスクリーンばかり見ていた。
流れる雲、そよぐ風、季節の移り変わり
雨上がりのアスファルトから立ち昇る匂い
カラカラに乾いた喉に染み込む水の爽やかさ
春を知らせるような沈丁花の香り
それらを無視している姿が見えた。
世界はスクリーンに入っていた。
スクリーンのまわりはエアコンが効いて快適で、そこには立ち昇る匂いなど無かった。
イシキは怒った。
「スクリーンばかり見ていて何が悪い」
ムイシキは言った。
「君は大切なものを失っている。世界はデータだけでは無い。データにならないものにこそ、豊かさがあるんだ」
イシキは笑った。
「どんな豊かさだ? そんなものがあるなら、教えて欲しいものだ」
ムイシキはイシキに幼い頃の姿を見せた。
スマホもパソコンも知らない子供時代。
イシキは世界を体で感じていた。
感じることで世界と交流していた。
表面の奥にまた世界があった。
それは何重にも厚みのある世界で、深まれば深まるほど純粋さを増した。
イシキはスクリーンは表面しかあらわしていないことを悟った。
イシキは言った。
「世界はこんなにも深かったんだな。世界を貧しくさせてしまった」
ムイシキは言った。
「スクリーンを見るのを少し休んだほうがいい。胸の奥を感じるんだ。そこに扉がある」
「扉?」
「そこに別次元の世界がある。データであらわされて荒廃した世界より豊かな世界がそこにある」
イシキは胸の奥の扉を開いて、ムイシキの世界を見た。
イシキは言った。
「言葉にならない世界は、豊かだな」
ムイシキは「おかえり」と言った。
「そこは、ふるさとのようなところだよ。ずっと、辺境をさまよっていたんだ」
イシキは豊かさを取り戻した。