「影響力の武器」(誠信書房)によると、返報性の原理というものがあり、誰かに何かをもらうと、それに対して、お返しをせずにはいられない習性が人間にはある。
何かをもらっておきながら、何も返さないことは、「マナーを知らない人」として、嫌われるため、社会に根深く浸透している習慣として、現代にも返報性の原理は生き残っている。
子育てにも、返報性がある。
子供のために親が何かをするとき、時間差はあっても、子供は親のために何かをしてくれる。
勉強や仕事を頑張ったり、親を喜ばせることをしてくれる。
ただ、子供のために、ということには、紛らわしい意味が含まれている。
子供のために名門大学への進学を願う。
子供のために結婚を願う。
それは、子供のためなのか、親のためなのか、意味がボヤけるところがある。
子供のためを考えるなら、それは愛。
でも、それが親である自分自身のためなら、それは英語の「I」(わたし)なのだ。
子供のためと言いながら、親のための名門大学。親のための結婚。
それが相手を想う愛から来るのであれば、その愛に子供は応えてくれるだろう。
それが、「I」(わたし)であるとき、子供はその無意識を見抜き、愛ではなく「I」(わたし)で返すだろう。
子供に○○して欲しい、○○であって欲しい。
親なら誰でもそう願う。
そこで考えてみたいのは、それが子供を想う気持ちからくるのか、親自身の安心のためなのか、という誤解しがちな無意識に気づくことだ。
愛には愛で返されるなら、エゴにはエゴで返されるだろう。
聖人や聖母にはなれないが、エゴに気づくだけでも、子供のためになると思う。