元新聞記者、神戸金史さんの投稿です。
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障害を持つ息子へ
私は、思うのです。
長男が、もし障害を持っていなければ。
あなたはもっと、普通の生活を送れていたかもしれないと。
私は、考えてしまうのです。
長男が、もし障害を持っていなければ。
私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。
何度も夢を見ました。
「お父さん、朝だよ、起きてよ」長男が私を揺り起こしに来るのです。
「ほら、障害なんてなかったろ。心配しすぎなんだよ」
夢の中で、私は妻に話しかけます。
そして目が覚めると、いつもの通りの朝なのです。
言葉のしゃべれない長男が、騒いでいます。
何と言っているのか、私には分かりません。
ああ。
またこんな夢を見てしまった。
ああ。
ごめんね。
幼い次男は、「お兄ちゃんはしゃべれないんだよ」と言います。
いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。
想像すると、
私は朝食が喉を通らなくなります。
そんな朝を何度も過ごして、
突然気が付いたのです。
弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、
人をいじめる人にはならないだろう。
生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。
お前の人格は、この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。
お前は優しい、いい男に育つだろう。
それから、私ははたと気付いたのです。
あなたが生まれたことで、
私たち夫婦は悩み考え、
それまでとは違う人生を生きてきた。
親である私たちでさえ、
あなたが生まれなかったら、今の私たちではないのだね。
ああ、息子よ。
誰もが、健常で生きることはできない。
誰かが、障害をもって生きていかなければならない。
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。
私の周りにだって、
生まれる前に息絶えた子が、いたはずだ。
生まれた時から重い障害のある子が、いたはずだ。
交通事故に遭って、車いすで暮らす小学生が、
雷に遭って、寝たきりになった中学生が、
おかしなワクチン注射を受け、普通に暮らせなくなった高校生が、
嘱望されていたのに突然の病に倒れた大人が、
実は私の周りには、いたはずだ。
私は、運よく生きてきただけだった。
それは、誰かが背負ってくれたからだったのだ。
息子よ。
君は、弟の代わりに、
同級生の代わりに、
私の代わりに、
障害をもって生まれてきた。
老いて寝たきりになる人は、たくさんいる。
事故で、唐突に人生を終わる人もいる。
人生の最後は誰も動けなくなる。
誰もが、次第に障害を負いながら
生きていくのだね。
息子よ。
あなたが指し示していたのは、私自身のことだった。
息子よ。
そのままで、いい。
それで、うちの子。
それが、うちの子。
あなたが生まれてきてくれてよかった。
私はそう思っている。
父より
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余裕のあった時代は過ぎ、格差がむきだしになり、暗い気持ちを抱えた人たちが、SNSで憂さを晴らす時代。
優生思想が唱えられるのは、社会に有用でない人間は排除されても仕方ないと思われることと同じです。
社会の安定がゆらぎ、未来の展望もあやうくなったとき、弱い立場にある人へ向けられるのは、社会のお荷物という憎悪です。
障害者を抱える家族は、言葉にしなくても、植松聖に同意する人もいるかもしれない。
福祉現場で働くスタッフでさえ、本音では、植松聖と同じ意見かもしれません。
神戸金史さんの投稿が心に響くのは、あるべき姿が描かれているから。
障害者をもつ家族は、そうありたいと思います。
でも、暗い気持ちは簡単に塗り替えられるものではありません。
みんな暗い気持ちを抱えながら、光を見い出して荷物を抱えているのです。
笑顔に救われ、成長していると希望を望み、厳しい現実に、闇に導かれます。
植松聖になりかけながら、それでも、愛することを選ぶのは、それが人間だからです。
誰の心にも、植松聖がいて、神戸金史さんもいます。
荷物を抱え、泣き笑いしながら、愛のために生きることが、その子から贈られたプレゼントです。