いやもうとんでもない暑さですが

皆様無事に生きておられますか。


前回のブログで

加害者を赦せと

さも自分はできるみないに書きましたが、

内心、ほんとにそんなことできるのか?

いや難しい。。てかできん!

と思っています。


実は今、自分の人生にとって

どんなに言葉を尽くしても

私以外の人にはわからないだろうと

思われるくらいとても大切な人が、

生死の境目にいます。


メドベッドが来れば。。。

と切望していますが

万一間に合わなかった時に


騙した人や、騙された人々や、

自分の無力さも含め、

何もかもを赦すなんて

そんなことできるのか。。


できない気しかしません。


しかし、

あの世と言われている場所に行けば、

加害者も被害者も

どちらも祝福を受ける、そうなんです。


は?と思うかもしれません。

私も思います。

なんでだよと。


でも、あの世に行くと、

よくぞ役割を果たした!よし!

ということらしいんですよ。


被害者はともかく、加害者まで?

納得いかないですよね。

とてもとてもよくわかります。

私もです。


でも、被害者加害者、

どちらも役割を果たしたとして

祝福されるのなら、


残された我々も

何か役割りがあるのれません。


被害者の家族や周囲の人は

失った悲しみや喪失感、

加害者への怒りや恨み、悔しさ

自分自身の後悔、自責の思い、。。。

などなど複雑で深くて重い傷を

抱えることになります。


そして、

今まで通りに朝やら夜やら、

晴れたり曇ったり雨が降ったり

お腹も空くし、仕事に行ったり、

買い物にしたりお風呂入ったり、

こつこつと日々を生きなきゃならない。

そういうシンドさを抱えることになります。


加害者自身も、その周りの人も

隠しても隠しても、

どういうわけか暴かれて、噂になり。。。

自分の居場所がなくなり。。

本当に深く反省したとしても、

まともに生きることもままならない。

それもなかなかな人生になります。


つまり加害者も被害者も

まさに身命を賭して他者に

成長の機会を与えたことになります。


アメリカでは、困難を

神の贈り物という意味で

ギフトと言ったりするそうですが。。


果敢にも、ギフトを与える役割を果たした、

という意味で祝福されるし

残された者は全てを受け入れて

成長せい。ということなんでしょうね。


ただ言葉で云うほど簡単では

まっったくないですよね。


ほんとに、

大きなな大きな、大きな課題です。

十字架背負うみたいな。


ピンチはチャンスとか、

試練は超えられる者のみに与えられるとか


そんな言葉がムカつくし(w)

甘ったるく聞こえたりもします。

(それこそがあまえだったりもしますが笑い泣き)


そういう中で、ほんとうに赦せるか。

自信ありません。


とはいへ、

加害者を非難して恨み続けることが

あの世で祝福されるか

自分を責め続けることが

後の世のためになるか。


なかなかな課題ですね。


尻切れトンボですが

結論出ません。


ではではm(_ _)m


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