※ネタバレあり。

 
【どんな人生にも喪失はある】
 
世代を超えた豪華なキャストの集結、というのは本作の一面に過ぎない。本作の本質は、そのようなイベント映画的要素をドラマへ昇華した手腕にこそある。
 
終盤、目の前でメイおばさんを失った悲しみに打ちひしがれるピーター。自らの「選択」を悔いる彼の前に、並行世界ののピーター達が現れる。
 
ピーター2はベンおじさんを、ピーター3はグウェンを失った。彼らが示すのは「どのような選択をしたとしても、必ず誰がとの別れは訪れるということ」。重要なのは「何も失わない正しい選択」ではなく、「喪失に意味を見出し、悲しみを受け入れて進むこと」。ピーター1は、喪失に意味を見出すために「ヴィランも救う選択」をする。かつてメイおばさんがピーターに伝えた「人を救う意志」の継承だ。
 
そして、終盤、ピーターはその目的を果たし、ヴィランも世界も救うが、代償として世界から自らの存在を忘れられるという悲劇に見舞われる。MJもネッドも、もはや彼を覚えてはいない。メイおばさんもいない。ピーターは孤独となる。

しかし、それは本作のバッドエンドを意味しない。ピーターにはまだ残されたものがある。それは救命という「使命」。その使命を拠り所とすることで、再びスパイダーマンのスーツを纏うことで、ピーターは立ち上がる。喪失した「ピーター」のアイデンティティを、「スパイダーマン」のペルソナで補完した形だ。
 
元々は他者のためだった「救命」の意志が、転じてピーター自身の「救い」となる。「他者を救うことが、自らを救う」。それが本作の結論だ。選択で「振り返る喪失の運命」を避けることはできない。しかし、「人に手を差し伸べる」ことを選択することはできる。そのような選択こそ、並行世界を超えてピーターを定義する本質なのだ。
 
【MCUとの比較】
 
そしてMCUを俯瞰すると本作の結末も異なって見える。『アイアンマン3』ではトニーが依存の対象としていた「スーツから解放」され、トニーという自我を取り戻す。本作のピーターは対照的にピーターとしての存在を忘れられてしまうが、スパイダーマンの「スーツを纏う」ことで社会との接点を繋ぎ止める。
 
対照的だが、スーツの向き合い方を通してアイデンティティを探求するという点では共通する。このように時間を隔てた繋がりを見いだせる点もMCUの醍醐味だろう。
 
本作は単独シリーズ3作目でありながら、歴代スパイダーマンシリーズのキャラクター出演という集合映画的側面もある。本作の立ち位置に近いのは『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』だろう。あちらは、スティーブとトニーの信念の対立という集合作的要素を描きつつも、中心として「制度にとらわれずに人命救助を最優先する」スティーブの信念と、それゆえの「国際社会との衝突」が描写されスティーブ3部作の完結作として納得の内容だった。
 
本作も同様だ。華やかなシリーズを横断する共演を描きつつも、歴代のピーターを「喪失」という共通項で繋ぎ、「どのような選択をしても、喪失は避けられない。だからこそ大切なのは喪失に向き合う意志」というテーマを描き切った。特に本作の描写を持ってして『アメイジング・スパイダーマン3』が制作中止となったことで回収されずにいたピーター3のドラマ。グウェン喪失からの再起が描かれた点は、『アメイジング・スパイダーマンシリーズ』のファンとしても僥倖だった。
 
賛否ある「マルチバースサーガ」だが、「夢の共演」と「キャラクターのドラマ」をハイレベルで両立した本作は、その可能性を強く指示す一つだろう。