「伏線回収がすごい!」とか、作品が絶賛されている場面でよく見る言い回しです。
しかし、人はなぜ伏線が回収されることを高く評価するのでしょうか。
「サンクコスト効果」という心理学用語があります。
「サンクコスト効果」は、人は時間や手間をかけたものに強いこだわりを持つという心理傾向です。時間や手間をかけた手作り料理を美味しいと感じたり、手間をかけた積み木をうっかり崩してしまい落胆したり。
そのような心理傾向は、映画の鑑賞時にも反映されます。
終盤にこれまでの伏線が回収されると、一定の時間をかけて映画の序盤、中盤を見てきた労力が報われる感覚を味わいます。だからこそ伏線が回収される映画に人は好感を抱きますし、逆に伏線を投げられるとこれまでの労力を裏切られた気持ちになる、というわけです。
さて、一本の映画を仮定して進めましたが、上述の流れを「複数の映画作品を通して」より大きく展開したのが、アベンジャーズシリーズを始めとする「マーベル・シネマティック・ユニバース」(MCU)です。
複数の映画を巻き込むことは、観客により大きな手間と時間を要求すること。要求のハードルが高いからこそ、クライマックスの「エンドゲーム」にて、ルッソ監督を始めとする制作チームの巧妙な伏線回収がなされた際の感動は絶大なものであり、世界規模の熱狂を巻き起こしました。
一方で、そのようなマーベル作品の方法論への批判が根強いのも事実。
基本映画は一本で完結すべきで、一本の中で演出技術の競争が行われるべきであり、複数作品を巻き込み展開されるマーベル作品は「映画の枠組み」を逸脱している、という批判もあります。
一理ある論理ではありますが、この流れの中で下記のような逸話を想起しました。
「エルキュール・ポアロシリーズ」「そして誰もいなくなった」等の作品で知られ、ミステリー作品の可能性の開拓者としても知られるアガサ・クリスティーはかつて、とある作品で「作品の語りてこそが犯人だった」という、どんでん返しを展開します。
伏線はしっかり張られており、読み返せば納得できる展開でしたが、当時としてはあまりに革新的すぎる内容から、文壇からの批判を受けることとなりました。
時代の変化と共に再評価を受けることとなり、この作品は今では名作としての評価を揺るぎないものとしております。(ネタバレ防止のため、具体的な作品名の紹介は避けますが。)
時代の変化に合わせて様々な形態を見せるのも、芸術の宿命であるとも言えるのかも知れません。