※ネタバレあり。
【二重螺旋の救済】
「続編としての体裁で送る、過去作の副読本」。
というのが本作の所感だ。
まず本作へ至るまでの過去作を振り返る。
まどか一人が自らを犠牲に魔法少女たちの希望を守る偶像となるTV版。
ほむらが人としてのまどかを救うために偶像としての希望を終わらせた「叛逆の物語」。
まどかが「個人」としての自分を蔑ろにして「集団」に奉仕する覚悟
ほむらが「個人」としてのまどかを救うために「集団」を蔑ろにする情念
二つの想いを平行線のように対比して描いたというのが本作までの流れだ。
筆者としてはこのシリーズはまどかとほむら、どちらかが必ずしも正しいという書き方はしていないと考える。
「集団」を尊重するまどか
「個人」を尊重するほむら
「個人」を主張するばかりでは「集団」を救えない。
しかし「個人」を想う気持ち無しに「集団」を救う考えは生まれようがない。
どちらも正しいと言い切れないからこそまどかとほむらの考えの競合が示唆され「叛逆の物語」は終わった
異なる思想が終わりなき競合の中、遺伝子の二重螺旋のように織り込まれ世界の循環する未来が示唆された。
だから、筆者はテーマ的に「叛逆の物語」での完結で良いのではないかと思った。
【テーマの再話】
そこで本作の「ワルプルギスの廻天」では完成しつくされた作品の続編をどのように展開するかに注目した。
結果、所感は上述の通り「続編風味の補完」だ。
テーマ的には「叛逆の物語」からの前進はほぼないといって良い。
ほむらを中心に本作の流れを総括するなら下記のようになる。
自らのエゴを貫き「個人」としてのまどかを救ったほむら。しかし、ほむら「個人」での統治には綻びがあり、過去の魔法少女達の干渉を許してしまう。結果、「円環の理」の力の到来を招き、まどかは再び魔法少女達の「集団」の希望を守るべくほむら達のもとを去る。
展開は「集団」のためのまどかの自己犠牲というTV版の展開をなぞりつつ、一方さやか達のほむらへの激励を通しほむらの「個人」のエゴも肯定的に描かれ、「叛逆の物語」の決断もフォローされる。
いわば、TV版と「叛逆の物語」の両方の再話を描いた形だ。
まどかは去ったが、次はほむらが、今度はさやか達と共にまどかを取り戻すための行動を起こすのだろう。
ファンサービス的な再話の物語だが、本作を描く意義は確かにあった。
それは「ワルプルギスの夜」の人物像の補完だ。
【偉大なる先達】
「ワルプルギスの夜」。TV版最強の敵として描かれた存在の「個人」=「ワス」としての側面が描かれる。
元々は人々のために祈るシスター。しかし魔法少女の犠牲を見るうちに決断を下す。
それは「魔法少女を救済」すること。
そう、これはまどかの願いに近い。
本作においてはまどかのような魔法少女救済の願いをはるか過去に実践した存在。
いわばまどかの偉大な先達としてワスは位置付けられる。
しかしまどかとワスの願いには決定的な違いがある。
それはまどかが魔法少女の「希望」を守るに留め、「命」は救いきれなかったことに対し
「ワルプルギスの夜」は「希望」を守った上で、「命」まで救ったという事。
まどかは象徴として信仰の対象となることで「集団」の救済に成功したが
ワスは「集団」を救いつつ「個人」一人一人に「名前を呼び」向き合うという無茶を行った。
つまりワスの行動は、まどかの「集団救済」とほむらの「個人救済」の両取りだ。
ワスはまどか、そしてほむらにとっても偉大なる先輩なのだ。
しかし、その無茶はやがて綻びを生むことになり、魔法少女達の負担を一人で抱え込んだワスは「ワルプルギスの夜」として最悪の厄災を呼び込む存在となってしまう。
【過去作の副読本】
このタイミングで「ワルプルギスの夜」=「ワス」の過去が掘り下げられたのは理由がある。それは彼女と比較することでTV版のまどかの覚悟と「叛逆の物語」のほむらの決断を補完することになるからだ。
ワスは「一人」で「集団」としての魔法少女と「個人」としての魔法少女を救おうとして失敗した。
一方、TV版では「集団」に尽くすまどか、「叛逆の物語」では「個人」を諦めないほむらが描かれた。
「一人ではかなわない理想でも、二人なら」
「集団」と「個人」両方の「救済」の可能性がまどか、ほむら、ワスの三者の比較で鮮明となる。
上述のテーマはTV版と「叛逆の物語」である程度示唆されていたため、真新しいテーマ的な発展がある訳ではない。
しかしワスの掘り下げにより過去作のテーマはより鮮明に、ダイレクトに感情を揺さぶるものとなった。
「続編としての体裁で送る、過去作の副読本」という所感は上述した理由から来るものだ。
【搾取者への依存、歪んだ現代性】
本作での最重要キャラクターは上述した様に「ワルプルギスの夜」だが、セルマも強烈な印象を残した。
「叛逆の物語」では「個人」としての意地を通したほむらだが、彼女の行動はつまり「他の存在が、自分のエゴを通す余地を残した」ということだ。
だから、セルマの暗躍を許してしまう。
ではセルマの「個人」としての動機は何かといえば、きゅうべえへの献身。つまりは「搾取されることへの依存」だ。
TV版と「叛逆の物語」できゅうべえの「魔法少女システム」は抗うべきものとして描かれた。しかし本作の「円環の理」が無力化され信仰の対象を、希望を奪われた者がどのような行動を起こすかをほむらは掌握出来てはいなかった。
その綻びがセルマの「搾取されることに希望を見出す」という歪んだ思考を生み、暗躍の余地を与えてしまった。
セルマの暗躍で「希望」の必要性が逆説的に示唆されまどかの信念と「円環の理」の意義が補完された。
「希望」を見出せず、「搾取してくる相手」に依存するというのは閉塞感ある現代性の反映のようで息苦しさを覚える。
ほむらの独善的な「個人主義」の限界を示唆する展開だが、「個人を守りたいと想う」彼女の信念まで否定されるものではなかった。
さやかを中心に、杏子、マミ、なぎさもほむらを激励する。「搾取対象への依存」ではなく「仲間との連帯」を通して希望を見出し「個人」と「集団」の救済の理想を目指す。
その「信念」を描くことこそが本作の意義なのだ。
【ライトな感想】
あとは、展開にはまんまと乗せられてしまった。タイトルと予告から「ワルプルギスの夜」こそがメインヴィランだと勘違いしたからこそセルマの暗躍には驚かされた。
「叛逆の物語」できゅうべえがまどかを警戒するあまり、ノーマークだったさやかやなぎさに足元をすくわれた時はこんな感覚だったのかと思い知らされた。
作品の方向性としては「結城友奈は勇者である:大満開の章」を彷彿とした。続編と過去編のストーリーラインの並走。
ただ今回の「ワルプルギスの廻天」は描写の重要度という点で過去編に比重が置かれていたように思う。ほむら達よりワス達を掘り下げていた場面のほうが物語が躍動していたように思う。
これならいっそ「ノーゲーム・ノーライフ:ゼロ」のように割り切ってワス中心の過去編としてしまい新規の観客に向けて間口を広げた方がコンパクトに纏まりつつ過去作の補完としても機能したのかなと思ったりした。
