※ネタバレあり。

「島嶼化」という生物学用語がある。外界と隔絶された環境下で資源や食料の限られた生命は少ない食料でも生存できるよう、消費するエネルギーが少なくて済む「シンプル」で「単純な」構造へと変化していくという現象だ。

さて、『創世記』(ジェネシス)から始まる『猿の惑星』新シリーズはシーザーが率いる猿の進化と「社会性」を複雑化させていく過程が描かれてきた。しかし、複雑な社会においては、派閥の結成や内乱なども問題となる。『新世紀』(ライジング)において、人間に受けた傷のトラウマから「暴力による支配」を標榜し、人間との武力衝突を画策したコバをシーザーは「秩序」と「法治」という観点から裁く。

そうすることにより猿のコミュニティを守ったシーザー。彼の信念の一貫性が問われるのが本作だ。

本作の冒頭で「大佐」という人物が率いる人間の一団の襲撃により、シーザーの家族が命を落とす。「復讐心」に囚われたシーザーは猿のコミュニティの統治という使命を放棄し、一路、「大佐」への報復に乗り出す。

しかし、「大佐」の率いる人間のコミュニティを目の当たりにし、シーザーは驚きを隠せない。人間のコミュニティはそれぞれコードナンバーで呼ばれ、個性を主張しない、ただ命令に従うだけの「個人」を放棄した一団だった。頂点に立つ「大佐」とて例外ではない。彼もまた「大佐」という符丁で呼ばれる。肩書の持つ役割のみを果たす者として存在している。

それは、本作の世界観に起因する。環境変動と資源の枯渇により、もはや人類に文化や個性を維持する余裕がなくなった。種としての存続率を限界まで引き上げるため、「文化」を棄て、「個」を棄て、そして最後に「役割」だけが残り「システム」を回し続ける。だからこそ彼らは「数字」や「肩書」のみで区別される。

本シリーズはこれまで、猿が「複雑な社会性」を獲得するまでの過程を描いてきた。翻って本作は人類が「複雑性」を放棄し、生存のためより「シンプル」に変化していく疑似的な「島嶼化」の過程を描く。

最終盤において「大佐」を前にし、復讐の機会を得るシーザー。しかし、彼は「復讐」を選択しなかった。赦した訳ではない。ただ、目の前に復讐すべき「個」などいなかったということだ。システムの一部となり「個」を持たない「大佐」への「復讐」に意味などなかった。

だから、シーザーは猿のコミュニティに舞い戻り、再び社会への貢献を始める。復讐に身を投じ一過性の感情で留飲を下げても報われはしない。家族を奪われた悲しみ、割り切れぬ思いをどのような形で昇華し、社会への貢献とするか。苦しみと共に歩む先にこそ可能性があるとシーザーは信じるからだ。

「複雑な形への進化」を描いてきた「新シリーズ」だが、本作では「単純な形への変化」の可能性をも描く。「オリジナル」の『猿の惑星』シリーズのテーマを現代的に再解釈してきた「新シリーズ」はこの『聖戦記』(グレート・ウォー)を持って新境地を開拓した。

名作の継承のみならず、名作への挑戦も恐れない。リメイクやリブートの跋扈する近年だが、『猿の惑星』新シリーズはその中でもと特筆すべきクオリティを持つ一つであろう。