※ネタバレあり

 

【目に見える「対立」、見えざる「孤立」】

 

理想的なスピンオフだ。

『ウルヴァリンシリーズ』完結作たる本作は、大本の『X-MENシリーズ』に通底する「マイノリティの孤独」の問題というテーマを共有しつつも、また異なる視点からテーマを描く。

『X-MENシリーズ』は、差別される者達の「戦い」を描く作品だった。彼らミュータントが直面するのは、自らに向けられた社会からの憎悪。ミュータント排斥の法案や治療のためとされる薬剤の流通など、有形無形の社会的圧力。

 

それらから居場所を奪われまいとするミュータントの戦いの物語であり、その極地は『フューチャー&パスト』でのミュータント殲滅兵器センチネルとの最終戦争だった。『X-MENシリーズ』で描かれたのは、ミュータントが「人と異なること」に端を発する「目に見える対立」だった。

では、本作『ローガン』はどうか。本作はミュータントが「少数派」であることの基づく受難が描かれる。環境変動で資源が目減りする世界観。人間でさえも社会的なフォローを満足に受けられない社会において、少数派となったミュータントは更に生きづらい状況に追い込まれる。「目に見えにくい孤立」だ。

 

資源が目減りした状況では、特に厳しい環境に置かれるのはマイノリティであるという「社会構造」の問題が強調される。現実においても「少数派が福祉にアクセスしにくい」という問題は多くある。『X-MENシリーズ』が人とミュータントの直接的な「目に見える対立」を描くのとは対照的だ。

『X-MENシリーズ』が少数派に向けられる「目に見えやすい」な「迫害」を描くのに対し、『ローガン』は「目に見えにくい」社会的「孤立」を描く。本作はシリーズのテーマのパラダイムシフトを起こす役割を担うのだ。

 

【政治における「少数派」の困難】

 

世界観も興味深い。『フューチャー&パスト』の粛清に基づくディストピアと『ローガン』の資源の目減りし衰退の一途をたどる終末的世界観は対照的だ。同じシリーズで「滅亡に瀕する近未来」という近しいモチーフでここまでの対象性を描くシリーズの裾野の広さには圧倒される。

ミュータントであるがゆえに、社会福祉も満足に受けられないローガン。彼は体調の芳しくないチャールズの介護のため、身の危険の付きまとう仕事で日銭を稼ぐしかない。

 

冒頭の場面は鮮烈だ。ローガンが複数人の暴漢に襲われる。何とか撃退するローガンだったが重症を追いつつ、仕事での借り物の車を傷つけられてしまう。ミュータントとして腕力で勝るローガンであっても人間の「多数」にはかなわない。冒頭だけで本作の力関係と「少数派の社会的困難」という本作のテーマが描写され本作の壮絶な作風を痛感させられる。

 

少数派であることは政治的に不利という事。終盤でミュータントが新たに生まれなくなり、元々存在していたミュータントが次々姿を消していた理由が明かされる。世界的な活動として秘密裏に、食料にミュータントの因子を抑制する成分が混入されていたというのだ。

 

生活のインフラを抑えられてしまえばミュータントと言えども対抗のしようがない。インフラの制御の決定権を握るのは政治的に多数派たる人間。「少数派」としてのミュータントの困難の描写はここに極まる。これは『X-MENシリーズ』で描かれた「目に見える迫害」とは異なる「見えざる迫害」なのだ。

【「言葉」と「生き様」】


チャールズの元を訪れ、介護を行うローガン。チャールズの認知症故、思うように介護をさせてもらえない。そのような中でも「いつものこと」のように、手慣れたローガンの所作から、この日々を積み重ねた年月が伝わる。

 

絶望的な世界観の中、チャールズとローラ、キャリバン、数少ない仲間のために、命を削り戦うローガンの姿は胸を打つ。『フューチャー&パスト』では未来チャールズが過去チャールズに向け、スーパーパワーの本質を「忍耐」と説いた。その言に則るなら本作のローガンのスーパーパワーの本質は、過酷な状況下でも失われない「面倒見の良さ」なのだろう。

チャールズが「理想を言葉で語る」。対してローガンは「生き様で語る」。凄惨な戦いの中、『X-MENシリーズ』におけるローガンの意義が浮き彫りになることで、彼の『ウルヴァリン』シリーズは完結を見るのだ。