※ネタバレあり
久しぶりに「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」を見る。
恐ろしい映画だ、と改めて思った。
通常、「スーパーヒーロー映画」にはカタルシスがある。複雑な現代を、善と悪の対立軸に単純化して、現実に疲弊した我々視聴者を安心させてくれる。
今や社会問題を扱う信念あるヒーロー映画は多い。「X-MEN」「ダークナイト」「ウィンター・ソルジャー」「ブラックパンサー」等々。しかし、それらの作品も、我々に疑問提起を行いつつも、少なくとも表面上は善悪の対立軸を用意して我々を安心させてくれていた。
「シビル・ウォー」はその構造を破壊した。まったく視聴者を安心させてはくれないのだ。
救命活動による市民への巻き込み被害の責任にどう向き合うかで、対立するトニー=アイアンマンとスティーブ=キャプテンアメリカ。
協定に賛同し、救命活動の自粛を行うことで「被害者遺族への誠意」を見せることで、アベンジャーズの「社会的立場」を守ろうとするトニー。
暗躍するバロン・ジモの脅威から「遠く離れた土地の将来的な犠牲者」を一人でも減らすため、「命がけの救命活動」に赴くスティーブ。
「自粛する正義」と「行動する正義」。
どちらも正しい。あるのは立場の違いだ。
トニーは、黒幕のバロン・ジモを目撃しなかった。
スティーブは、黒幕のバロン・ジモを目撃した。
高度に複雑化した社会における「情報格差」が立場の違いを生む。不確定な状況下で、それぞれが信じられるものはこれまでの経験で培われた信念だ。
そして、クライマックスで明かされるのは、黒幕のバロン・ジモもまた、被害者であったという事実。
「スーパーヒーロー映画」でありながら、複雑な社会を単純化することなく、閉塞感をそのままに表現したことが本作の意義だ。
では、本作において、「理想」は描かれないのか?そんなことはない。それは、ティ・チャラ=ブラックパンサーとスティーブの行動で示される。
ティ・チャラは真の仇であるバロン・ジモを前にして、「復讐心を克服し」法の裁きを受けさせる。
スティーブはバッキーの命の危機という極限状況下において、リアクターを破壊してトニーとバッキーの双方の命を救う。
序盤で突撃部隊の命を守りつつ、バッキーを諭した時と同じ。スティーブの行動は「犠牲者数を最小化」しつつ「復讐の連鎖を断ち切ること」を目的とする点で一貫している。
情報化で複雑化し、立場を超えて手を取り合うことが難しくなる現代。「分断の時代」と呼ばれて久しい現代において、正義の見えにくい時代にあって、それでも信じられる「理想」があるとすれば。
それは、「救命を諦めないこと」と「復讐心の克服」により「対話の可能性を絶やさないこと」。
ラストシーン、スティーブからトニーへ「手紙」と「携帯電話」が贈られる。
これらが象徴する「対話の可能性」こそ本作の描く「理想」なのだ。
また、本作は「冤罪」の恐ろしさを描く作品でもある。
MCUは「ヒーロー集結」を描くための、多数のヒーローが存在する世界観だ。「市民が安心できる世界」。本作はそんなMCU世界を「冤罪の被害者にとって恐ろしい世界」として再解釈する。
「冤罪」を着せられたバッキーは、多数のヒーローの追撃を受ける。その恐怖の描写をもってして、現実でも起こり得る「冤罪」の脅威を寓話的に描く。
MCUの世界観の新しい活用方法を提示することで、シリーズとしての可能性を切り開いた点も特筆すべきポイントだ。
事態の収拾のために「立ち止まる」べきか、記憶をたどりバロン・ジモ追跡という自分にしかできない使命を果たし、「償うための行動」をするべきか。葛藤するバッキーの心理描写も、本作に不可欠なピースだ。
本作は「キャプテン・アメリカ」シリーズの集大成であり、MCUだからこそ成立した作品なのだ。



