戦姫絶唱シンフォギアGX(2015)
※ネタバレあり。
【裁かれる善意。「ある医師」の最期】

歌で戦い世界を救う、少女たちの戦いを描く「シンフォギア」シリーズ第3期。「シンフォギアGX」。
本作のメインヴィラン、キャロル・マールス・ディーンハイム。彼女の目的は錬金術を駆使した世界の解剖と破壊です。その「報復心」の原点は中世の時代のヨーロッパに遡ります。
まだ人間の少女であったキャロルは唯一の家族、父親のイザークと共に各地を旅してまわりました。イザークの職業は医者。まだ医療の発展途上の時代にあって、日々の研鑽を惜しまず、各地の病気や怪我に苦しむ人々を救う父親の姿をキャロルは誇らしく思っていました。
しかし、旅の途中で訪れたとある町で、二人は悲劇に見舞われます。その町では疫病が蔓延していました。イザークは初めて直面する疫病に対し、知識と経験、そして努力をもってして治療法を確立し病に苦しむ人々を救い始めます。
それを良く思わない人々がいました。その町を支配していた教団の人々です。長きに渡り、その町に君臨した教団は「信仰」により病から救われると説きました。しかし、「信仰」で病が治ることはなかった。それを突然来訪したイザークの「医療」が覆す。そのようなことがあっては、教団の「権威」を揺るがすことになる。
イザークの「医療」を受け入れれば、町の人々の「命」は救われます。しかし、それよりも教団は自らの「権威」を守ることを優先しました。イザークの「医療」は、禁じられた魔術を使う不道徳なものであり、やがて災いをもたらす。そのようなデマを流し、町中でのイザークの評判を毀損し、やがてイザークを罪に問い、処刑したのです。
キャロルはその様子を、見ていることしかできませんでした。
「医療」で「命」を救う「実利」よりも、「教団」の「権威」という「感情論」が優先されたのです。そして、何より絶望的なのは、この処刑に、教団の関係者のみならず、イザークに救われたはずの町の人々も加担していたということです。
「正常性バイアス」という心理学用語があります。困難を前にした際にパニックを避けるため、人は問題の本質から目を背けようとする心理傾向です。心を守るという意味合いにおいては必要な機能と言えますが、これが高じれば、問題を直視せず、解決の手段も取らないという問題に結びつき、果ては「問題に取り組む存在」を排斥する行動に結びつくこともあり得ます。
歴史上、優秀な軍師が王に問題の発生を報告し、対策を進言したところ、問題の「報告」を問題の「創造」と見なされ、処刑されたケースは数多くあります。
また。近年ではパンデミックの際、地域によっては感染症対策のため現地に駆け付けた医療団が「問題を持ち込んだ」と誤認され排斥の憂き目にあったこともあります。
「問題そのもの」と「問題を解決しようとする者」は大きく異なりますが、共に「平時とはことなるもの」として結び付けられ「錯誤帰属」され、現地民に排斥される。追い詰められた民衆が、冷静な判断をできないことは無理からぬ話ですが、その被害にあった当事者は納得できないはずです。父のイザークを奪われたキャロルは、その一人でした。
キャロルは、そのような「非合理」を目の当たりにしたからこそ「錬金術」という「合理」の究極にて世界を解剖し壊滅させるという、全人類への「報復」を志します。
「奇跡の殺戮者」誕生の瞬間です。
【「産褥熱」の歴史。キャロルの報復心】

キャロルの復讐の物語を見て、私は実在の医師、イグナッツ・フィリップ・ゼンメルワイスを想起しました。
ゼンメルワイスは1840年代から60年代にかけて活動した、ハンガリー出身の医師です。彼は「産褥熱」の治療法を確立した医師として知られています。産褥熱とは分娩後に起きる熱であり命にかかわることもある危険な病気です。当時は原因不明の病気として知られていましたがゼンメルワイスは産褥熱が感染症であり、患者にかかわる医師が消毒を徹底することで防げる病気であることを突き止めます。
彼の研究を広めることで大勢を救うことが可能でしたが、当時の医学界の権威により否定される憂き目にあいます。ゼンメルワイスの研究が正しいと証明されることはすでに亡くなった過去の患者への責任が現状の医学界、そしてそこに所属する医師たちにあると証明することでもあるからです。
ゼンメルワイスは今命の危機に瀕する患者を救うために研究を行い、そこに医師たちの責任を追及する意図などありませんでした。しかし自らの権威の失墜を恐れた医師たちが結託し、ゼンメルワイスの研究を闇に葬りました。
医学界から追放された彼は晩年は精神病に苦しみ亡くなりました。
理性的な「研究」が、感情的な「権威」により葬られる事例は、現実の世界にも存在するのです。
それゆえに、本作におけるキャロルの憎しみは、よりリアリティを持って胸に響きます。
【「合理」と「非合理」の競合。響の願い】

「俺は奇跡の殺戮者だ!」
キャロルはそう言って、奇跡を憎悪します。
キャロルにとって「奇跡」とは、父の愛した「合理」を否定する「非合理」の象徴だからです。
教団の「信仰」により病が治った。そうなれば、それはたとえ偶然であったとしても「奇跡」として民衆は評価します。そしてイザークの研鑽における「医療」は評価されず闇に葬られる。
それがキャロルには我慢ならず「奇跡」という概念への憎悪に結びつきます。
しかし、キャロルの様にひたすらに「合理」のみ追求すれば、その先に待ち受けるのは「孤独」です。
目的達成のための「合理」を追求した結果、自らの良心の体現であるエルフナインを排除し、身近に寄り添うオートスコアラー達を使い捨てる。そうしてたどり着く「孤独」に誰より苦しむのは、他ならぬキャロル自身です。
それを理解するからこそ立花響は、キャロルを救うため歌い続けることを止めません。
歌とは、生命維持に必須のものではありません。生存においてはエネルギーの浪費であり「非合理」の象徴です。しかし、人の希望や生きがいは、そのような「非合理」にこそ宿ります。
「思い付きを数字で語れるものかよ!」
「合理」と「非合理」の二重奏で紡がれる世界を赦し、受け入れることこそ、イザークが最期にキャロルに残した言葉の真意です。
「キャロル、世界を識るんだ。」
そして、イザークの言葉で伝わらなかった真意は、エルフナインの研究を介し、響の歌となって再びキャロルに救いの手を差し伸べます。
繋ぐその手は、一人の少女を救えるか。
「絶対に救う!」
「合理」と「非合理」。共生のための懸け橋としての「歌」と報復の言語と化した「錬金術」。響とキャロル。相反する二者の寓話的な競合こそ本作のテーマと言えます。
