こんばんは。原田芳雄さん亡くなったんですね。大腸がんってことは知ってましたが。。
(ニュースを引用)
映画「竜馬暗殺」「ツィゴイネルワイゼン」など個性的でワイルドな演技で知られたベテラン俳優、原田芳雄(はらだ・よしお)さんが19日午前9時35分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。71歳だった。今月11日に主演映画「大鹿村騒動記」(阪本順治監督)のプレミア試写会に車イス姿で参加し、病状が心配されていた。葬儀・告別式の日取りは未定。
最後の主演作となってしまった16日公開の「大鹿村騒動記」は、長野県の村歌舞伎を自らテーマに選び、病をおして撮り終えた。周囲からは「無理をしないように」と言われたが、自らアピールしたかった原田さんは、娘に車イスを押されて11日の試写会に登壇した。
髪は短くし体もやせ細って別人のような姿に、スタッフは息をのんだ。声が出にくいため、共演の石橋蓮司(69)が「今日はどうもありがとうございます。どうぞ、ごゆっくりご覧ください」とメッセージを代読。観客から拍手があがると、自らの寿命を悟っていたのか原田さんはポロポロと涙をこぼして手で拭った。隣の佐藤浩市(50)は、天を仰ぐように涙をこらえた。
原田さんにとって、公の場は、5月4日に映画の舞台、長野・大鹿村で行われた完成披露試写会以来。このときは、元気に歩いてあいさつしていたというから、わずか2カ月の間に急激に病魔が襲ったことになる。
病状については、腸閉塞と誤嚥(ごえん)性肺炎を併発し、腰痛を伴う持病の腰部脊柱管狭窄症の悪化-と発表されていた。原田さんは2008年に早期の大腸がんが発見され、手術していったんは克服。俳優活動を続けてきた。阪本監督によると、プレミア試写会の楽屋では当人が「必ず戻ってくるからな」などと復帰に意欲を見せていたという。
【“アナーキーな個性派”の地位確立】
原田さんは、1940年2月29日、東京都足立区生まれ。66年、第15期生として俳優座養成所を卒業し、俳優座に入団、翌年、「どれい狩り」で初舞台。68年、同年松竹「復讐の歌が聞える」の主人公役で映画デビューを果たし、翌年、清水邦夫脚本の「狂犬なおもて往生をとぐ」の主役に抜擢され一躍人気俳優となった。
その後は、純朴な青年風からワイルドなアウトロー風へとイメージチェンジし、日活ニューアクション「反逆のメロディー」「新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ」のほか、「八月の濡れた砂」「赤い鳥逃げた?」「竜馬暗殺」などに主演。圧倒的な存在感と演技力でアナーキーな個性派俳優としての地位を確立した。
71年、俳優座の体質を批判し、市原悦子、菅貫太郎、中村敦夫らとともに退団。テレビドラマにも活躍の場を広げつつ、75年には「田園に死す」「祭りの準備」でキネマ旬報とブルーリボンの助演男優賞を受賞し、日本を代表する映画俳優の座を不動のものとした。100本を超える映画に主演し、数多くの映画賞を受賞するかたわら、2003年には、紫綬褒章を受章していた。
~「夕刊フジ」より
(引用終わり)
以下はフェイスブックのコメント欄に記した、僕の感想です。
(引用1)
原田さんは腹の座った、その意味で存在感のある役者だったと思いますが、ハラ=腸は感情や本能の宿る場所でもあるので、ものすごいよどみやすい面もあるんです。演じることでよどんだんでしょうね。いろんな人格を演じるわけですから、通常より絶対負荷がかかります。だから、生理学的にみても、大腸ガンを患うというのは宿命に近いというか、それだけ役者として自分の生き様を賭けていたんだと感じます。
(引用2)
他人を演じるというのは、その人の業を引き受けることだから、本当は臓器(腸)のケアがすごく大事です。でも、原田さんみたいなああいう個性派の役者は、よどむことも個性だったでしょうから、自分自身の矜持もあって難しかったと思います。だから、宿命だったのかなと。。強烈なインパクトは残しましたもんね。
。。。これで、僕が言わんとするところがわかりますかね?
病気というのは決して偶然に起こるものではなく、食事や生活習慣のみが起因するものでもありません。
このように生き方・生き様がそのまま凝縮されているような面が、とくにガンという病気に関しては色濃くあると感じています。
その意味では、病気になることに良し悪しはありません。
丸ごとその人の生き方として受け入れて、そこからいろいろなことを感じたり、学んだりすることが、第三者である僕たちにできることなんでしょう。決して身近な人ではありませんでしたが、おかげですごくいろんなメッセージを受け取ることができました。
皆さんは、一人の役者の死をどう感じられたでしょうか?
(ニュースを引用)
映画「竜馬暗殺」「ツィゴイネルワイゼン」など個性的でワイルドな演技で知られたベテラン俳優、原田芳雄(はらだ・よしお)さんが19日午前9時35分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。71歳だった。今月11日に主演映画「大鹿村騒動記」(阪本順治監督)のプレミア試写会に車イス姿で参加し、病状が心配されていた。葬儀・告別式の日取りは未定。
最後の主演作となってしまった16日公開の「大鹿村騒動記」は、長野県の村歌舞伎を自らテーマに選び、病をおして撮り終えた。周囲からは「無理をしないように」と言われたが、自らアピールしたかった原田さんは、娘に車イスを押されて11日の試写会に登壇した。
髪は短くし体もやせ細って別人のような姿に、スタッフは息をのんだ。声が出にくいため、共演の石橋蓮司(69)が「今日はどうもありがとうございます。どうぞ、ごゆっくりご覧ください」とメッセージを代読。観客から拍手があがると、自らの寿命を悟っていたのか原田さんはポロポロと涙をこぼして手で拭った。隣の佐藤浩市(50)は、天を仰ぐように涙をこらえた。
原田さんにとって、公の場は、5月4日に映画の舞台、長野・大鹿村で行われた完成披露試写会以来。このときは、元気に歩いてあいさつしていたというから、わずか2カ月の間に急激に病魔が襲ったことになる。
病状については、腸閉塞と誤嚥(ごえん)性肺炎を併発し、腰痛を伴う持病の腰部脊柱管狭窄症の悪化-と発表されていた。原田さんは2008年に早期の大腸がんが発見され、手術していったんは克服。俳優活動を続けてきた。阪本監督によると、プレミア試写会の楽屋では当人が「必ず戻ってくるからな」などと復帰に意欲を見せていたという。
【“アナーキーな個性派”の地位確立】
原田さんは、1940年2月29日、東京都足立区生まれ。66年、第15期生として俳優座養成所を卒業し、俳優座に入団、翌年、「どれい狩り」で初舞台。68年、同年松竹「復讐の歌が聞える」の主人公役で映画デビューを果たし、翌年、清水邦夫脚本の「狂犬なおもて往生をとぐ」の主役に抜擢され一躍人気俳優となった。
その後は、純朴な青年風からワイルドなアウトロー風へとイメージチェンジし、日活ニューアクション「反逆のメロディー」「新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ」のほか、「八月の濡れた砂」「赤い鳥逃げた?」「竜馬暗殺」などに主演。圧倒的な存在感と演技力でアナーキーな個性派俳優としての地位を確立した。
71年、俳優座の体質を批判し、市原悦子、菅貫太郎、中村敦夫らとともに退団。テレビドラマにも活躍の場を広げつつ、75年には「田園に死す」「祭りの準備」でキネマ旬報とブルーリボンの助演男優賞を受賞し、日本を代表する映画俳優の座を不動のものとした。100本を超える映画に主演し、数多くの映画賞を受賞するかたわら、2003年には、紫綬褒章を受章していた。
~「夕刊フジ」より
(引用終わり)
以下はフェイスブックのコメント欄に記した、僕の感想です。
(引用1)
原田さんは腹の座った、その意味で存在感のある役者だったと思いますが、ハラ=腸は感情や本能の宿る場所でもあるので、ものすごいよどみやすい面もあるんです。演じることでよどんだんでしょうね。いろんな人格を演じるわけですから、通常より絶対負荷がかかります。だから、生理学的にみても、大腸ガンを患うというのは宿命に近いというか、それだけ役者として自分の生き様を賭けていたんだと感じます。
(引用2)
他人を演じるというのは、その人の業を引き受けることだから、本当は臓器(腸)のケアがすごく大事です。でも、原田さんみたいなああいう個性派の役者は、よどむことも個性だったでしょうから、自分自身の矜持もあって難しかったと思います。だから、宿命だったのかなと。。強烈なインパクトは残しましたもんね。
。。。これで、僕が言わんとするところがわかりますかね?
病気というのは決して偶然に起こるものではなく、食事や生活習慣のみが起因するものでもありません。
このように生き方・生き様がそのまま凝縮されているような面が、とくにガンという病気に関しては色濃くあると感じています。
その意味では、病気になることに良し悪しはありません。
丸ごとその人の生き方として受け入れて、そこからいろいろなことを感じたり、学んだりすることが、第三者である僕たちにできることなんでしょう。決して身近な人ではありませんでしたが、おかげですごくいろんなメッセージを受け取ることができました。
皆さんは、一人の役者の死をどう感じられたでしょうか?