ミゲル邸の応接室。
昼の陽は傾きかけ、床に落ちる影は長く伸びていた。
「東洋の剣──いや、“精神”か。あれには心を揺さぶられた」
重厚な声を響かせたのは、イングランドから来訪中の貴族、ヘンリー・マールバラ卿。
金の細工を施した指輪を弄びながら、言葉を続けた。
「ぜひ、我が国の館でも披露願いたい。民も、学者も、あれを必要としていると確信している」
ミゲルは丁寧に礼を述べ、烈馬の横顔をちらと見た。
烈馬の視線は遠くに向いていたが、その目は明らかに“沈黙の返答”を発していた。
「このまま奴らの求めに応じ、剣を見せ、香を焚く……その影に、草を潜ませる」
書斎での密談。扉には重ねた絹布が風の音を遮っている。
「この機会に、再び“草”を撒くべきだ」
ミゲルは地図を広げ、いくつかの都市に小さな赤点を記した。
「ロンドン、アントワープ、ナポリ、ローマ、そして……ウィーン」
「まずはイングランドだ。霞は、今も“声なきまま”生きているかもしれん」
「メアリー・カスミ・アダムス……新聞社の記者として潜伏中と、かつて耳にした」
ミゲルの言葉に、烈馬は目を閉じた。
「霞、梅之助、蓮……彰馬」
かつて、命をかけて送り出された草たちの名。
彼らは、沈黙と共にこの地に根を張っているはずだった。
夜、烈馬は一枚の地図に草の印を記していた。
それは、折れた竹を模した単純な図形──“草”の証。
「声を上げる者は狩られる。だが……沈黙の種は、誰にも焼けぬ」
その言葉を胸に、彼はマントを肩にかけた。
「いざ、イングランドへ」
出立の朝。
馬車が揺れる中、ミゲルがひとつの封筒を手渡した。
「……これが、霞から届いた文だ。昨夜、新聞社の使者を装った男が持ってきた」
封を切ると、中には文章ではなく、一枚の新聞の切り抜きと、極めて薄い紙に書かれた暗号文。
《光の届かぬ書庫にて、未だ私は文字を磨いている──沈黙の刃として》
烈馬の口元が僅かに緩んだ。
霞は、まだ草であった。
数日後──
烈馬はリスボンの港から帆船に乗り込んだ。
北海の風を受けて、船はイングランドへと静かに進む。
沈黙のまま、波を切る音が遠ざかっていく。
音なき種は、すでに撒かれ始めていた。
▶『裏天正記』ヨーロッパ編 第5話「声無き種、地に撒かれる」をカクヨムで読む。
📖考察:「声無き種、地に撒かれる」に込められた静かな革命
1. 🌱“敵の招待”を利用する転換点
本章では、烈馬たちが敵の中枢からの“招待”──イングランド貴族による東洋文化披露の要請──を受け入れます。
一見すると敵の思惑通りの行動に見えますが、実際には草たちの潜伏と思想工作を進める機会として利用し始める点に大きな転換があります。
「このまま奴らの求めに応じ、剣を見せ、香を焚く……その影に、草を潜ませる」
この一言に、草の戦い方が“攻撃”から“浸透”へ変化したことが端的に表れています。
2. 🕊第一陣の草の再登場──ただの再会ではない
霞の暗号文の登場は、「草がまだ生きている」ことを知らせるだけでなく、草たちはそれぞれの地で独自に“構造への反逆”を準備していたことを示します。
《光の届かぬ書庫にて、未だ私は文字を磨いている──沈黙の刃として》
この言葉は、烈馬だけでなく読者にも、「この物語はひとりの戦いではない」ことを明示する非常に強いメッセージです。
3. 🧭“潜伏”とは未来への布石
草を奴隷や交易人に偽装させ、各都市に送り込む計画は、一見すると受動的で静かな作戦に見えます。
しかしこれは、敵が支配を強める「今」に対して、「百年後」を視野に入れた静かな革命の始まりです。
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武で斬らず、思想で侵す
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破壊せず、構造に紛れ込む
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今ではなく、未来を奪い返す
まさに草とは、“沈黙する思想”であり、烈馬はその第一の運び手となるのです。
✨まとめ:沈黙は敗北ではない、種まきの音である
第五話は、表面上では何も起きていないように見えます。
だが実際には、「潜伏という最も静かな作戦」が開始された物語の転換点であり、草たちの本質を最もよく体現した章とも言えます。
