小石川養生所は、江戸の町の喧騒から、わずかに距離を置いた場所にあった。
門をくぐると、そこには整えられた庭と、静まり返った空気が広がっている。
ここが、幕府の医療を担う場所。
多くの病を救い、同時に、多くの病を見逃してきた場所でもある。
澪と楓は、名を告げ、上役の医師と対面した。
年配の医師は、端正な身なりで、言葉遣いも丁寧だった。
「最近、妙な症状の患者が増えていると聞きましたが」
澪の問いに、医師は一瞬だけ視線を伏せた。
そして、穏やかな声で答える。
「心の病でしょうな。
世の中も落ち着かぬ折、気を病む者も増えております」
「薬の使い過ぎという話も」
「よくあることです。
町医者が処方を誤ることもありましょう」
言葉は、どれも間違ってはいない。
だが、どれも核心に触れていなかった。
澪は、それ以上問いを重ねなかった。
問い詰めても、答えは変わらぬと悟ったからだ。
礼を述べ、部屋を辞する。
その背後で、医師は安堵したように息を吐いた。
廊下を進み、門へ向かおうとしたときだった。
「……少し、お待ちください」
控えめな声が、二人を呼び止めた。
振り返ると、若い医師が立っていた。
年の頃は二十代半ば。
白衣の袖を握りしめ、周囲を気にする様子がありありとわかる。
「ここでは……あまり詳しいことは言えませんが」
声は低く、早口だった。
「同じような症状の者が、確かに増えています。
しかも、町人だけではありません」
澪は、視線だけで促した。
「武家の……奥向きの方々です。
理由もなく怯え、
眠れず、
手が震え、
やがて正気を失っていく」
「養生所では……
記録は、別の病として処理されています」
若い医師の言葉には、悔しさが滲んでいた。
「私には、どうすることもできません。
ですが……」
一瞬、言葉を切り、意を決したように続ける。
「異国の薬に詳しい医師がおります。
蘭方を学び、
実際にその薬を見て、触れてきた方です」
澪の胸が、わずかに高鳴った。
「佐藤先生に話を聞いてくだされば……
もっと、はっきりしたことがわかるはずです」
それだけ言うと、若い医師は深く頭を下げ、足早に去っていった。
まるで、誰かに見られることを恐れるかのように。
門を出たところで、楓が小さく息を吐いた。
「……組織というものは」
澪が、続きを引き取る。
「守るために作られ、
やがて、守ることそのものが目的になる」
澪は、養生所の門を振り返った。
志は、まだ残っている。
だが、それは、内側からでは動けない。
ならば――
外から、動くしかない。
澪の視線は、すでに次の行き先を見据えていた。
▶「裏天正記」幕末編第12話「養生所に集まる、語られぬ兆し」をカクヨムで読む
第12話 考察「制度が病を覆い隠すとき」
第12話は、病そのものではなく、
病が“見えなくなっていく仕組み”を描いた回です。
小石川養生所は、本来、
徳川吉宗の時代に「民を救う」ためにつくられた組織でした。
しかし時代が下り、支配者が変わり、
その役割は次第に “問題を起こさないための装置”へと変質しています。
上役の医師が語る言葉は、
どれも事実ではあるが、真実ではない。
-
心の病
-
薬の誤用
-
個別の問題
それらはすべて「間違っていない」が、
全体像を見ようとしない言葉です。
若い医師の存在が示すもの
一方で、若い医師は気づいています。
-
同じ症状が繰り返されていること
-
身分を超えて広がっていること
-
公式記録が意図的に分断されていること
しかし彼は、
組織の内側にいるがゆえに、
それを公に語ることができません。
ここで描かれるのは、
組織は、
内部にいる者ほど、
真実を語れなくなる
という現実です。
澪の立ち位置の変化
澪はこの回で、はっきりと理解します。
-
制度は、必ずしも救うために動かない
-
志は、内側からでは届かないことがある
-
外から来た者にしかできない役割がある
だからこそ、彼女は動きます。
養生所を責めるのではなく、
期待することをやめ、
次の「見る者」を探す。
それが、佐藤泰然という存在です。
第12話は、
「答えを得る回」ではありません。
答えを、どこに求めるべきかを定める回です。
