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東海林直人のゴロテマ日本史ブログ

*受験生を応援したいと思っています。これらは勤務校の教え子に紹介してきたものですが、全国の受験生に紹介し、少しでも役に立てばと思います。なおゴロ句は苦労の発明品につき、無断複製・転載は禁止です。

□中世269.狩野派の系譜(5人) ◇C

[ゴロ]マサの元の部が/A特の/サラタ油


信(まさのぶ)・元信(もとのぶ))(永徳(えいとく))(山楽(さんらく)・探幽(たんゆう))


[句意]マサの元の部署がA特級のサラダ油を製造した、という句。「サラダ油」はゴロのため「サラタ油」と濁らずに覚えてください。


[ポイント]

1.狩野派は主に狩野正信元信永徳山楽探幽とつづく。

[解説]

1.応仁の乱後の京都で、狩野正信(1434?~1530)・元信(1476~1559)父子は、水墨画(明で学んだ雪舟が創始)に伝統的な大和絵土佐光信(?~1522)が大和絵土佐派の基礎をつくる)の手法をとり入れ、新しく狩野派をおこした。

2.元信の孫の狩野永徳(1543~90)は、室町時代にさかんになった水墨画と日本古来の大和絵とを融合させて、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図を持つ新しい装飾画を大成した。永徳は、その門人狩野山楽(1559~1635)とともに多くの障壁画を描き、狩野派では障壁画の中心となった。永徳の代表作は、『唐獅子図屏風』『洛中洛外図屏風』。山楽の代表作は『牡丹図』『松鷹図(しょうようず)』。


3.寛永期には狩野派から狩野探幽(1602~74)が出て、江戸に移り、幕府の御用絵師となって活躍した。しかし、その子孫は様式の踏襲にとどまり、創造性に乏しく、狩野派は衰えていった。探幽の代表作は、『大徳寺方丈襖絵』。


〈2016立命館大・全学部2月3日〉

(k)下線部5狩野永徳の祖父にあたる人物は誰か。もっとも適当な人名を下から一つ選べ。

 あ狩野正信 い狩野元信
 う狩野吉信 え狩野長信」

(答:い)〉


〈2016関西学院大学・全学部2月2日:「

問6  a・bの文章の正誤を判断せよ。

 a 14世紀に京都五山で活躍した義堂周信や絶海中津は、幕府の政治・外交顧問であるとともに、優れた和歌の詠み手であった。それらの和歌作品は五山文学とよばれた。
 b 南北朝時代、京都に狩野永徳・狩野探幽が出て、水墨画に大和絵の技法を取り入れた狩野派をおこした。

(答:a×鎌倉五山で活躍、b×永徳・探幽は安土桃山時代)


〈2014同志社大・文:「
 城や殿舎の内部を飾る障壁画の画家たちの中心となったのは、狩野派である。なかでも( d1 )は室町時代に盛んになった水墨画と日本古来の大和絵とを融合させて、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図をもつ新しい装飾画を大成し、『唐獅子図屏風』などの作品を残した。狩野派からは多くの画家が出たが、秀吉の小姓出身の( d2 )は、かれの気風を最もよく伝え、『牡丹図』『松鷹図』などの作品を残し、その後の狩野派の発展を支えた。狩野派は、伝統的な画題のほかにも新興勢力として登場した都市や庶民の生活・風俗などを題材にした風俗画も盛んに描いており、数多くの作品を生んだ。」


(答:d1狩野永徳、d2狩野山楽)〉