□中世206.鎌倉文化(彫刻:運慶の長三四男と作品)◇B
[ゴロ]Kは/33の短頸(たんけい)だが/神戸の店頭(てんとう)に立つ/好商な子(こう) や
(慶派)(三十三間堂千手観音像(さんじゅうさんげんどうせんじゅかんのんぞう)・湛慶(たんけい))(康弁(こうべん)・興福寺天灯鬼竜灯鬼像(てんとうきりゅうとうきぞう))(康勝(こうしょう)・六波羅蜜寺空也上人像(ろくはらみつじこうやしょうにんぞう))
[句意]Kちゃんは33歳の短頸だが神戸(支店)の店頭に立つ好商人な子だ、という句。短頸は頸(首)が短いこと。つまりあんまり格好が良い男ではないが神戸の店で陣頭指揮を執る良い商人だ、ということ。「子や」は大阪弁風に(こうや)と読んでください。なお「空也」は(こうや)とも読むので念のため。また「立つ」は音声としてのゴロになっていないが「竜」の連想に役立つと思います。
[ポイント]
1.運慶の嫡男湛慶の代表作は三十三間堂千手観音像、3男康弁の代表作は興福寺天灯鬼竜灯鬼像、4男康勝の代表作は六波羅蜜寺空也上人像。
[解説]
1.運慶の子は、長男湛慶、次男康運、三男康弁、四男康勝。快慶は弟子であって子ではない。
2.湛慶(1173~1256)は運慶の嫡男で4子のなかで仏師として最も優れていた。代表作は京都の蓮華王院本堂(通称三十三間堂)本尊で千体(実際は千一体)が林立する千手観音像。この数体に湛慶の銘があり、この千体は湛慶が慶派を指揮して制作したもの。
3.康弁(生没年不詳)は、運慶の3男。父に従い仏師集団慶派の一員として造像に関わったものと思われるが多くは不明。代表作は興福寺本尊の灯籠(とうろう)である一対の木像、天灯鬼・竜灯鬼像。現在は同寺国宝館に展示されている。竜灯鬼像の胎内に封入されていた紙片から、この像が建保3年(1215年)に康弁作であることがわかった。本来は四天王の足下に踏みつけられて表現される邪鬼たちを独立の像としたもので、ユーモアの趣がある。
4.康勝(生没年不詳)は、運慶の4男。兄たちとともに父の率いる慶派の一員として造仏に従事したが詳細は不明。現存する康勝の作品としては、日本の肖像彫刻として屈指の名作とされる六波羅蜜寺蔵空也上人像がある。口からの念仏6字にあたる仏像が出ている姿に特徴がある。
5.なお2男に康運(こううん、生没年不詳)がいる。慶派の一員として造仏に従事したが詳細は不明。
6.慶派仏師として他に定慶(じょうけい、生没年不詳)がいる。作風から康慶の弟子という説が有力である。ほぼ等身大の力士像の興福寺金剛力士像は定慶の作と伝えられる。
7.その他鎌倉時代の肖像彫刻の傑作に、東大寺再建の勧進上人をかたどった東大寺重源上人像、関東管領の祖をかたどった明月院上杉重房像がある。康慶一派の作と思われるが作者不詳。
8.鎌倉時代に再建された東大寺は、源平争乱中の1180年、平重衡によって焼かれた。
[正誤問題]
1.市聖と呼ばれた空也をかたどった、六波羅蜜寺の「空也上人像」は国風文化を代表する彫刻である。
(答:国風文化→鎌倉文化)
〈2014立大・法経済異文化コミュ:「
4.1180年、平清盛は〈 え 〉に、平氏に敵対する興福寺や東大寺の衆徒を攻撃するよう命じ、そのため奈良の諸寺院の多くが焼失してしまった。その後、奈良の諸寺を復興するさいに大きな役割を果たしたのが、奈良の仏師たちである。彼らの作業場は仏所(工房)の形をとるようになった。寄木造の技法が、1つの仏像を大勢の工人で造ることが多かったためである。そうしたなかで興福寺に仏所をかまえた奈良仏師のなかから、快慶や運慶、運慶の第3子で興福寺の竜灯鬼像を造った( チ )らが登場し、力強い写実性を有し、豊かな表情にあふれる仏像を生みだした。
(答:え平重衡、チ康弁)〉
[日記]
皆さん、しばらくぶりです。実は海外旅行(ポルトガル)に出ていました。受験を戦っている浪人生・高校3年生には申し訳ありませんでした。 ←しばらくしたら消します。