□嵯峨天皇の8件 ◇S
[ゴロ]高2の薬子(くすこ)は/寮の特段けばい/黒カレーを/食えた
(弘仁(こうにん)格式(きゃくしき)・薬子(くすこ)の変)(凌雲集・徳丹城・検非違使(けびいし)・蔵人(くろうど)・文華秀麗集)(公営田(くえいでん))
[句意]高2の薬子は(学生)寮の特段にけばい黒カレーを食えた、という句。
[ポイント]
1.嵯峨天皇は、薬子の変を鎮め、徳丹城・蔵人所・検非違使・公営田を設置、弘仁格式・凌雲集・文華秀麗集を編纂させた。
[解説]
1.嵯峨天皇(786~842、位809~23)は、即位ののち810(弘仁元)年に、平城京に還都しようとする兄の平城太上天皇と対立し、「二所朝廷」とよばれる政治的混乱を生じた。結局、嵯峨天皇側が迅速に兵を出して勝利し、太上天皇はみずから出家し、その寵愛を受けた藤原薬子は自殺、薬子の兄藤原仲成は射殺された(平城太上天皇の変、薬子の変ともいう)。
2.この事件の際に、天皇の命令をすみやかに太政官組織に伝えるために、秘書官長としての蔵人頭を設け、藤原冬嗣(北家)らを任命した。その役所が蔵人所(810設置)で、それに属する蔵人はやがて天皇の側近として宮廷で重要な役割を果たすことになった。
3.また嵯峨天皇は、平安京内の警察にあたる検非違使を、816年に設けた。検非違使は、のちには裁判もおこなうようになり、京の統治をになう重要な職となっていった。
4.嵯峨天皇は、氏姓秩序の混乱を収めるため『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)(814成立)を、法制の整備のため『弘仁格式』(820成立)を編纂した。
5.朝廷は財政難に苦しみ、小野岑守(おののみねもり)の建議により大宰府の財源として、公営田が設けられた(823設置)。
6.嵯峨天皇は、蝦夷征討に文室綿麻呂を派遣、最後の城柵の徳丹城を築いた。
7.嵯峨天皇は、初の勅撰漢詩文集である『凌雲集』(814成立)を、ついで『文華秀麗集』(818成立)を編纂させた。
〈2013青山学院・文:「809年に即位した嵯峨天皇は、翌年に発覚した薬子の変を平定し、蔵人頭や[ d ]などの令外宮によって律令の市制に変革を加えた また、自らは漢詩文を多く残し、三筆の一人に数えられるなど、宮廷を中心とする唐風文化の隆盛をもたらした。彼の後を継いで823年に即位した淳和天皇の時代には、『養老令』の注釈書である『令義解』や、勅撰漢詩文集の『[ ウ ]』が編纂されたことでも知られている。」(答:d検非違使、ウ経国集)〉
〈2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A))〉下線部(カ)桓武天皇から嵯峨天皇の時期の政治動向として、もっとも正しいものを、次の①~④のうちから1つ選び、マーク解答欄に記入しなさい。
① 藤原氏らにより、道鏡が下野薬師寺に追放された(×)
② 早良親王の怨霊の跳梁を恐れ、長岡京遷都は実行されなった(×)
③ 藤原薬子が自害したことで、一時的に藤原北家の勢力は衰えた(×)
④ 平安京の治安維持を担当する検非違使が設置された(〇)〉