2025.2.4.
小早川隆景の所縁の城です![]()
正嘉2年(1258)、都宇竹原庄の地頭職として、竹原小早川家の初代である、沼田小早川家茂平の子、政景がこの木村城に入りました。
天文10年(1541)、13代当主の小早川興景が、安芸守護職武田家の居城、銀山城攻めの際に陣中で病死しましたが、嫡子が無かったため、興景の正室が毛利元就の姪だった縁から、毛利家から三男の隆景が養子に入ることになり、竹原小早川家を継いで木村城に入ります。
天文19年(1550)に隆景は、本家の沼田小早川家も継ぐことになり、翌天文20年(1551
)沼田小早川家の本城であった高山城に入りました。
最初、入り口がわからず!車道を登って行ってしまい
可笑しいな?登城口を探していると、地元のお母さんが反対から歩いてきて、話を聞くと入り口を教えてくれました![]()
登城路![]()
図には載っていないが、低い位置にも竪堀が確認できます![]()
少し行くと虎口が見えてきました![]()
虎口の下には、大きな竪堀![]()
(馬返しの段)と呼ばれる曲輪
その上には「兵糧の段」と呼ばれる綺麗に削平された曲輪が広がる![]()
井戸跡は、
落ち葉でいっぱい![]()
兵糧の段へは、さっきの井戸跡の奥から道があるけど、下からは気づかなかった![]()
迂回する形で上へと上ります。
埋まってしまったか!?ここも、どこに井戸が在るのか分からない![]()
兵糧の段の下の帯曲輪から、馬返しの段を見る
実際の道は、ここに在るが!写真では分からないなっ![]()
兵糧の段の虎口。 石積み跡が確認できます![]()
(兵糧の段)
ココには、若宮社と言う社が在った様だが、城の守り神だったのかな![]()
兵糧の段の端。見張り台が在ったみたい![]()
そして、戻り本丸を目指します
段違いに![]()
(井戸の段)
木村城には、三か所の井戸が在ったようで、現在も確認できる唯一の井戸![]()
石積みで囲われているけど、草でよく見えない![]()
そして、本丸へ![]()
木村城!攻城成功![]()
本丸から下の帯曲輪を![]()
木村城の跡は、すぐ近くの屋敷跡へ![]()
木村城から賀茂川を挟んで対岸に、手島屋敷と呼ばれる中世の居館跡が存在する。間口約50m、高さ3mの石垣が残存しており、石垣の両隅は枡形が切られている。かつては「西殿屋敷」「西の殿屋敷」(にしんどんやしき)と呼ばれていた。
竹原小早川氏が竹原を去る時、竹原小早川家の家臣であった手島氏がその屋敷と居館を受け継いだと言われている。中世城館調査では竹原小早川氏の「居館候補地」として挙げられている。
敷地は広く、当時は大きな屋敷が在ったのだろう
現在は、一般のお家が在るので、全体を撮ると家が写ってしまうのでカメラを向けるのは遠慮した![]()
それから、近くにある(竹原小早川氏の墓地)へ![]()
墓所の上には、隆景の養父となった小早川興景夫婦の墓とされる2基の宝篋印塔が残っている。














































