田辺城跡と御城印 | かまのん紀行

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日常の事や、旅行での事、寺社巡りや史跡巡りなど行った所を日記形式で載せます♪

2024.6.4.

 

天正6年、織田信長の命により細川藤孝と明智光秀は丹後に侵攻し、建部山城主一色義通を滅ぼして丹後を平定した。その功により細川藤孝は丹後一国12万石の領主となった。
天正7年、藤孝は宮津城を本城として築き、同時に加佐郡の押さえとして田辺城を築城した。天正10年に本能寺の変の際、藤孝は隠居して田辺城を居城とした。

 

 

デザインマンホールイヒ 撮りたかったやつ~OK

 

 

 

                  ほっこり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『 豊臣秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立を中心とした諸大名の勢力争いが激しくなってきました。慶長5年(1600)6月、家康は会津上杉征伐のため江戸に向かい、 細川忠興は家康に加勢するため、2800の兵とともに田辺を出発馬馬馬 一方三成は、この機会に家康の勢力を除かんとして大坂で挙兵し、家康方についた細川征伐のため関西の諸将に対して、丹後出陣を命じました。
この時、細川幽斎は、本城の宮津城などを焼き、守りに適した🏯田辺城で留守軍500余名を指揮し、籠城の態勢をとりましたパー
慶長5年7月20日、福知山城主小野木公郷を総大将に石田方軍勢1万5千人が丹後に侵攻、田辺城のまわりに陣どり、遠まきに攻撃を加え、攻防戦がはじまりましたドンッ
しかし、西軍の諸将の中には、幽斎を歌道の師として崇拝する者が少なくなく、城を攻め落とす事に躊躇いがありましたえー?
それと上差し幽斎は「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であったため、古今伝授の廃絶を憂慮した後陽成天皇の🫵勅令で、関ヶ原の戦いが始まる3日前の9月12日に包囲が解かれ、ここに50余日にわたる田辺籠城は終わりをつげたのです。』

田辺城の戦い包囲図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この辺は、当時のままっぽいにやり

 

 

 

 

 

慶長5年、関ヶ原の戦功により細川藤孝・忠興父子は、豊前中津に移り、替わって京極高知が信州飯田から123,200石で入封する。
元和8年、高知が死去後、嫡男高広は宮津城に移り、次男高三が加佐郡35,000石を分知され田辺城に居城した。寛文8年、京極高盛が但馬豊岡に移り、京都所司代であった牧野親成が35,000石で入封、以後牧野氏が代々居城して明治に至った。


天守台石垣

 

 

 

 

 

田辺藩校(明倫館)の移築門

 

 

 

 

 

田辺城移築門(瑞光寺)

 

同じく(見海寺)