2024.2.6.
引田城跡の後は~初登城。
十河氏の居城だった「十河城跡」へ
『 南北朝時代からの約230年、十河氏の居城。城は東西を谷に挟まれた舌状の台地上に所在し、南に大手を設け、他の三方は湿田に囲まれ、五重の土塁と深く切立った堀があり、攻め入る隙がなかったと言われている。(現在、西側にある池は後のもの)称念寺のある約60メートル四方が主郭で、西と北側に腰郭の平坦地が付属している。北側に空堀(堀切)を造り、土橋で北の郭とつないでいる。
十河氏は神櫛玉の末裔で、植田氏の一族と伝えられている。天文年間(1532〜1555)には阿波の三好長慶の弟一存を養子に迎えた。
一存は「鬼十河」と恐れられた猛将で、畿内各地で戦い、讃岐でも勢力を拡大した。後を継いだ存保も三好家からの養子であり、讃岐の旗頭として活躍した。
しかし!一存が急死し、後ろ盾だった三好氏が急速に弱体化していくと、天正10年(1582)四国統一を目指す土佐の長宗我部元親は軍36000の兵で十河城を取り囲み激戦が繰り広げられた。一度は土佐へ引き返させたが 天正12年(1584)に開城した。
天正13年(1585)豊臣秀吉による四国出兵により、山田郡二万石は再び存保に与えられるが、翌年、九州の戸次川の戦いで討死し、その後、子の干松丸も早世したことから廃城となった。』
本丸跡にある称念寺
現在は、住宅地となった十河城ですが、高低差や、僅かに残る切岸で当時を偲ぶ
本丸側
本丸側
本丸側
土橋跡から本丸側を見たとこ
土橋横は、空堀(堀切)で本丸と二の丸?とを区切っていました。
空堀(堀切)跡奥に見える池は、当時は無かったもの
土橋から、二の丸とされる側
それから「十河の郷」へ管理されている方が造った資料館
当時の地形図を合わせると東西が谷だったことが分かります
それから、鬼十河と恐れられた十河一存のお墓と、最後の城主、十河存保の墓🙏
「十河一存」
三好元長の四男として生まれ、兄には、三好長慶、三好実休、安宅冬康がいます。
讃岐十河城主の十河景滋の世継ぎであった十河金光が早くに亡くなってしまったため、十河一存は養子として送られ、十河家の家督を継ぐことになりました。
摂津江口の戦いや、中尾城の戦い、北白川の戦いなど数多くの戦いに参戦した猛将であったと言われています。
ある戦いで左腕を負傷してしまいます。しかし!一存は傷口を消毒するために塩を塗り、藤の蔓を包帯代わりにして、再び戦場に出て勇猛果敢に戦いました。この姿を見た敵が恐れおののき、「鬼十河」という異名をつけたそうです。
武勇を誇った一存でしてが、病にかかり、永禄4年(1561年)に30歳という若さでこの世を去ります。」
「十河存保」
三好義賢の子。叔父・十河一存の養子となる。1561年家督相続後、十河城主となる。1578年には阿波勝瑞城で長宗我部氏と対峙する。羽柴秀吉を通じて織田信長に通じ、同じく明智光秀経由で信長に通じていた長宗我部氏に勝って信長の四国征伐を誘発した…はずだったが、本能寺の変が発生し、勝瑞城、十河城は落ち大坂へ逃げ延びる。
秀吉の四国征伐で十河城を回復するが、九州征伐での戸次川の戦いで、仙石秀久の戦術に同調し出撃長宗我部元親は無謀だと反対したが!仕方なく追随
案の定、島津軍の罠にはまり
結果!言い出しっぺの仙石秀久が、真っ先に逃げ
十河軍は壊滅!十河存保は討死
巻き沿いの長宗我部の元親は命からがら撤退しかし!息子の信親が戦死してしまう
この後、十河存保の幼少の息子も早世したため十河氏は改易した。
御城印は、鬼十河!十河一存のデザイン