= 丹波 八上城跡 = | かまのん紀行

かまのん紀行

この度、ヤフブロの閉鎖の為… こちらに移行して来ました✋

日常の事や、旅行での事、寺社巡りや史跡巡りなど行った所を日記形式で載せます♪

2023.5.2.

 

丹波三大山城の一つで、波多野氏の居城『八上城』へ車DASH! 

八上城が在るのは、丹波富士とも呼ばれる高城山ですほっこり

 

丹波攻めの明智光秀と、波多野氏との間で熾烈な攻城戦があった城パー

八上城は、5か所の登り口があります。今回は🅿駐車場も整備されている「右衛門コース」を行きます走る人 以前の大河ドラマ「麒麟がくる」では名前くらいしか登場しなかったが!

丹波の城は有名になり黒井城や八上城などの整備が進んだ様ですニコ

 

 

今回、特に見ておきたかったのが黄色で囲ってる所ですOK

 

石見の人ともされる波多野清秀が応仁の乱にて戦功をあげて永正年間に多紀郡郡代に就任した際、多紀郡朝冶山に築城して居城としたことから八上城の歴史が始まる。15世紀後半に高城山南西尾根先端部に奥谷城を築き、城下町を奥谷に置く。16世紀前半には高城山頂に八上城を本城として築く。清秀の子、波多野元清は拠点の八上城から多紀郡内の豪族討伐を開始する。

当時、細川氏両家の内紛が起きており、高国派だった波多野氏は反勢力の澄元派の酒井氏、長沢氏らの豪族と対立した。そして酒井氏を酒井合戦で長沢氏を福徳貴寺の合戦で撃退し、屈服させた。その後、酒井氏、長沢氏らは重臣に起用され、酒井豊教は主君の波多野元秀(元清の孫)の書状の発給を行い活躍した。弘治3年(1557年)に一度松永久秀によって城を奪われたものの、永禄9年(1566年)に元秀が奪還。支城の法光寺城は、抗争に先立ち八上城および城下の防衛力増強の目的で築城されたものである。その後、城下は中心部を奥谷から街道沿いにあった八上に移した。

 

天正3年(1575年)に織田信長の命を受けた明智光秀による攻略が開始され、波多野秀治には毛利氏や赤井氏の支援があったものの兵糧攻めにより城内は困窮した。天正7年(1579年)に落城、秀治、秀尚、秀香は捕縛されて安土城下で処刑され、

 

慶長7年(1602年)、前田茂勝(五奉行の前田玄以の子)が八上五万石を領して入城する。 

慶長13年(1608年)に茂勝が改易され、入封した松平康重が篠山城を築城したため八上城は廃城となった。

いざ!登城開始走る人

 

麓の春日神社境内を抜けます。

 

 

 

麓には、前田主膳の館が在った広い空間があります。

 

 

 

 

 

そして登り開始にやり

 

案内板も、しっかり有り分かりやすいOK

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

斜面には竪堀が所々に見れますキラキラ

 

 

 

番所の様な小さな曲輪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、主郭近くに来ると石垣の跡がチラホラとキラキラ音譜

 

 

 

右衛門丸。

 

 

 

三の丸。その上が二の丸。

 

 

 

二の丸。

 

二の丸からの景色目

 

 

 

本丸側面は、石垣で防御されています。が!季節的に草に埋もれているえー?ギリギリ僅かに見れましたイヒ

コケも生えてるので見えずらいねうーん

 

 

 

岡田丸。

 

そして、本丸へパー 麓から約30分。ちょっと休憩お茶おにぎり

 

 

 

本丸には、城主波多野秀治公を称える表忠碑がほっこり

 

 

それから、反対側へ少し下ります走る人

 

 

 

 

 

 

 

 

土塁跡。

 

 

暫く下ると登城路の分岐にパー その下にある巨大な竪堀。上から見たとこ目

表記は、大竪堀となってますが、堀切~竪堀って感じかなほっこり

 

 

 

 

 

そして、見たかった池まで下りてきましたOK 水も澄んでいて水源として今も使えそうニコ

 

 

 

 

 

竪堀を下から見たとこ目

 

 

それから下城、来た道を🅿まで戻りましたにやり

 

その後、波多野秀治公の菩提寺『誓願寺』へパー


天正年間(1573~92)の初め、八上城主波多野秀治の庇護を受け丹波に移った覚山天誉が、のちに八上城が在る高城山の山麓に開基創建したのが始まりです。波多野氏が滅んだ後の慶長14

年、篠山城築城のため現在の地に移築されました。

(開山の覚山天誉は、13代将軍足利義輝の長男義高で、永禄八年(1565)父義輝が松永久秀らに殺されると京都の誓願寺に逃れ、父の菩提を弔うために仏門に入りました。)

お願い

波多野秀治公のお墓と後世、子孫の方が建てた五輪塔。墓碑には「大雄院殿英山玄功大居士」の戒名が刻まれています。

秀治公と弟秀尚の辞世の句

秀治『弱りける 心の闇に迷はねば いで物見せん 後の世にこそ』

秀尚『おほけなき 空の恵みも尽きしかど いかで忘れん 仇し人をば』

それから、波多野家の墓所に在る秀治公の墓にも訪れました。


お願い

波多野秀治公は、降伏の後、弟らと安土に送られ、処刑されました。

     「大雄院殿英山玄功大居士」