2018.11.6.
念願の安土城址に、やっと来る事が出来ました~


城巡りを始めて、かれこれ!18年位になるか
城好きとしては、真っ先に行っとくべき城跡です
実は、6年前に安土城に来るつもりで、近くまで来ましたが!連れの反対で断念
それ以来、気持ちとタイミングが合わず...。そして、今年の家族旅行で滋賀に訪れ近くを通ったのをきっかけに
一気に気分が上昇
単身で乗り込んだ次第です


沢山の城マニアが研究解説してるので!今更、説明も要りませんが、少しだけ紹介を
そう!織田信長が、築城 当時では、珍しい総石垣の城なのです~
天正4年(1576年)から、標高199mの安土山に、3年半ほどの歳月をかけて完成しました
安土山の南側には、堀が巡っていて往時の名残りを留めています。天主跡と本丸跡には礎石が、また二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長廟が残っています。天主跡から東へ少し下った黒金門跡付近には、壮大な石垣もあります。また、山の中腹には家臣団屋敷跡があり、山の尾根づたいに北へ行くと八角平や薬師平があります。城山の中心部への通路は、南正面から入る大手道のほかに、東門道、百々橋口道、搦手道などがあります。

(安土城想像図)
城の外面は各層が朱色・青色・あるいは白色、そして最上層は金色だったといいます。内部は、狩野永徳が描いた墨絵で飾られた部屋や、金碧極彩色で仕上げた部屋などがあり、当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成して造られたといわれています。

(安土城CG)

さて
とりあえず、攻め上がります
こちらは、『東虎口跡』薬医門か唐門をかまえた虎口があったとされています

大手門跡から見た『西虎口』側
こちらは広く、それなりの曲輪だったようです

「安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。
通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1箇所だけですが!織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏(だいり)と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。
(簡単に言うと安土城の正面の門は大手門とあわせて4つ並んでたって事
)

大手道から百々橋道の間にある《南裾帯曲輪と虎口跡》
百々橋の方からから西虎口の前まで当時は内堀が有った様です!

受付にて入城料を納めて、いざ


(安土城の図)現在地は、受付の所

先ずは、大手道を上ると直ぐ左手に在る《伝 羽柴秀吉邸跡》

秀吉の館は、かなり大きかった様だな




向かいには《伝 前田利家邸》が在ります


180mの大手道を登り切った所から見下ろしたとこ

ここからは、ジグザグの階段が続きます

登りきると開けた所へ
この場所は、信長の嫡子 信忠の館が在った場所でした

《伝 織田信忠邸跡》

信忠の屋敷を西に進むと総見寺跡で百々橋道に続く
信忠の屋敷を抜けて、天主に向かいます
天主に向かうには、屋敷を抜けなければ行けないので、防御的には重要な場所だったでしょう

ココを上がると黒鉄門
門の左裾には、森蘭丸や織田信澄の館が在った様ですが、確認は出来ません

《黒鉄門跡》
巨石を使用した虎口
もちろん!桝形になっていますよ
虎口を抜けた後は左右に進めるようになっており、右が本丸、左に進むと長谷川秀一邸跡。侵入した敵を迷わせる仕掛けになっています。

一番堅固な場所です

桝形虎口を抜けた左側には、雰囲気があり何やら気になる階段が~
でも、長谷川秀一邸跡に着きます

もちろん、メインの右に進みます

とにかく、石垣に囲まれ凄い圧迫感です
もちろん
当時は、塀や櫓や門があったのだから!圧巻だったろうな~


そして、二の丸へ
夜中の雨で、ビチャビチャです
ここには、信長の霊廟が在ります
天正11年(1583年)2月に羽柴秀吉によって建立され、信長の太刀や烏帽子、直垂(ひたたれ)などの遺品を埋葬して本廟としました



信長の絵馬が可愛い

そして、いよいよ本丸へ
この場所には、本丸御殿が在りました
『信長公記』によれば、本丸御殿には「御幸の御間」があったと記載されています。
どうやら!信長は、天皇を行幸させようとしていた様で、「御幸の御間」がある本丸御殿は、現信長廟のある二の丸に存在していて、現在、本丸跡と総称されている場所は南殿であり、三の丸跡は「江雲寺御殿」が在ったそうです。
その後の調査で、慶長年間に改修された京都御所内にある天皇の住居である清涼殿と酷似した構造になっていたことが判明しました。
また、礎石上の柱痕からこの建物が高床式であったこと、周囲の伝三の丸跡や天主取付台と渡り廊下で繋がっていたことなどが明らかになりました
また、礎石上の柱痕からこの建物が高床式であったこと、周囲の伝三の丸跡や天主取付台と渡り廊下で繋がっていたことなどが明らかになりました

この石垣の上から奥に三の丸が在った様で
本丸より高い位置に三の丸が在った!

(本丸裏門跡or伝 本丸南虎口跡)

(伝 本丸東虎口跡)
この虎口は、立派な桝形で櫓門があった様な感じですが!何処に繋がってるのかな~
そして、天主跡へ

そうそう、普通は、天守と書きますが、信長は「天主」と表記しています。

天主は、5重6階地下1階でした
安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けている
発掘調査では、中央に礎石が無い事が確認されたが!代わりに深さ約1mの穴(土坑)が確認されている。穴からは、焼け落ちた天主の一部と思われる炭や木片とともに、壺のかけらのような破片がいくつも出土した。推測では、この穴の上にはかつて天主を支えた心柱が建っていたと考えられ、宝塔があり(天守指図からの推測)その為、穴には舎利容器である壺が入っていたものと推測されます

天主台は東西、南北それぞれ約20mの台地となっています。
日本で、初めて石垣に天守と言う構造になったのが安土城です。
信長は屋敷ではなく、天主で生活していたそうです
信長は屋敷ではなく、天主で生活していたそうです
『行き来が面倒なのに、好きだね~
』

天主台から本丸跡を見る

天主台からの景色~
現在は、かなり埋め立てられていますが、当時は、琵琶湖の内湖である西の湖と伊場内湖によって三方を湖で囲まれた立地に安土城は建てられました

『あぁ~!安土城が現存していたらな~
本当に、見て見たかった城です
』
安土城全体が完成したのは、天正8年の暮れ頃で、天正9年1月に完成を祝し安土馬揃えがされている。
しかし
天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長は自刃
6月14日頃から明智軍が攻め入る!その後、安土城は炎上してしまいます。天主の完成から僅か3年半!惜しくも灰塵に帰してしまいました
どうして、燃えてしまったのか
『惟任退治記』や『太閤記』など後世の書物では、秀吉軍から明智秀満が逃げる時に城下に火を放ち、それが本丸に飛び火したと記されています。しか!、近年の発掘調査から、安土城の本丸周辺以外の場所は燃えていないことが分かりました
それでは、誰が
それは、信長の息子の織田信雄です。ルイス・フロイスが『イエズス会日本年報』で信雄が犯人だと記していました
信雄は明智勢が退去した直後に安土城に入りますが、その際、まだ城内に隠れていた明智勢の残党を炙り出すために火をつけたのではないかと考えられています?
しかし!理由は、フロイスも「分かりません」としていますが!信憑性は高い様です
『んん~』安土城址を満喫し
下城します
ルートは、総見寺跡を通って下り、その後は、安土城郭資料館に寄ってみます

つづく