近年、誰かしらの武将巡りをしていると!何かと関連で、出て来る森家の男たち
この前の豊臣秀次の時にも、次男の長可が出て来たし
数年前には、蘭丸、坊丸、力丸と信長の墓が在る《阿弥陀寺》にも行ったし
それから、忠政(千丸)のお墓参りに行った時!いつか、お父ちゃんの森可成のお墓参りにも行きたいと思っていて...。 その時の様子
(森忠政と菩提寺の本源寺)(京都めぐり(弐) 【阿弥陀寺】)
2018.11.6.
やっと、行く事が出来ました~
本当は、今年の夏の滋賀旅行で寄りたかったけど時間の都合で行けなかった

《聖衆来迎寺》(滋賀県大津市比叡辻)
延暦9年(790年)に最澄が地蔵教院を建立して開基、長保3年(1001年)に、延暦寺の恵心僧都源信が紫
雲に乗じた弥陀聖衆の来迎を感得して「紫雲山 聖衆来迎寺」と定めたと伝えています。
雲に乗じた弥陀聖衆の来迎を感得して「紫雲山 聖衆来迎寺」と定めたと伝えています。
表門。この門は、坂本城の城門を移築しました


《 森可成のお墓 》
森可成(よしなり)は、大永3年(1523)に森可行の子供として生まれました。当初は美濃国守護職の土岐氏に仕えていましたが、斎藤道三の台頭により土岐氏が没落すると、織田信長に仕えるようになったとされます。
信長の家督争いに協力し、地位を確立させた事で重臣に抜擢されるようになり、その後は、桶狭間の戦い、姉川の戦いなど、主要な合戦に従軍する。そして、美濃金山城を与えられ居城とした。一方、上洛への前進基地となる近江宇佐山城(滋賀県大津市南滋賀町)の城将にも抜擢されます。
元亀元年(1570)石山本願寺を攻める織田軍を、東西挟み撃ちを画策する浅井長政・朝倉義景の連合軍を阻止する為に、森可成は近江宇佐山城から出陣し坂本に陣を構え迎え撃ちます
しかし!比叡山の僧兵も加わり
多勢に無勢...奮戦むなしく討死
遺骸は、生前関係が深かった聖衆来迎寺の住職真雄が密かに境内に運び込み篤く弔ったそうです
聖衆来迎寺は比叡山延暦寺関係の寺でしたが!森可成と聖衆来迎寺の関係を知った織田信長は、元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちの際には、可成の墓があるので
標的から外したと云われ被害を免れています。

森可成の家系は頼定の次男・森定氏の子孫が美濃に住んで代々土岐氏に仕えた。弟に可政、子に可隆、長可、蘭丸(成利)、坊丸(長隆)、力丸(長氏)、忠政、娘(木下勝俊室)、娘(関成政)など。

森可成の最期については、キチンと記録に次の様に書き残されている
「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎防戦火花を散らし、九天九地の下を通り、終日合戦なり。浅井、朝倉新手を入れ替えて攻め戦うによって、織田九郎、森可成両将とも下坂本瀬戸在家にて討ち死になり」とある。享年48。
討ち死にしたものの坂本で数日間に渡って浅井・朝倉連合軍の行軍を妨害し近江に釘付けにした為、連合軍は信長の背後を突くことは出来なかった。宇佐山城も家臣の各務元正、肥田直勝などが奮戦、落城を免れた。

森可成所用の兜『銀箔押大釘頭立付頭形兜(ぎんぱくおしおおくぎずたてつきずなりかぶと)』
あとは、長男(可隆)と、鬼武蔵と呼ばれた長可のお墓参りだな~