2016.10.4.
pm12:30
次は、吉田神社からすぐの【金戒光明寺】に到着
何年ぶりだろ~
久しぶりにやって来ました~


『くろ谷さん』で親しまれているお寺です
そして
ココも、新選組ゆかりの寺
てか誕生の寺です。

『 文久2年閏8月1日、會津藩主松平容保は、江戸城へ登城し、14代将軍徳川家茂から京都守護職を任ぜられた。
會津藩松平容保は、家臣1000名を率い文久2年12月24四日午前9時頃京都三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした會津正規兵の行軍が一里余りも続いた。この間、京の町衆も両側に人垣を作り大歓迎するのであった~
』
『 新選組と會津藩の関係は
幕府が文久2年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。
文久3年2月8日江戸小石川伝通院に集合した240余名の浪士組は中山道を通り、京都へ出発した。同23日京都の壬生へ到着。
文久3年2月8日江戸小石川伝通院に集合した240余名の浪士組は中山道を通り、京都へ出発した。同23日京都の壬生へ到着。
生麦事件発生により清河八郎他200余名は江戸へ帰ることとなり、清河と意見を異にした近藤勇・土方らは、水戸浪士芹沢鴨達とともに京都残留を希望し、3月10日老中の板倉勝静は京都守護職松平容保に浪士差配を命じ、近藤・芹沢らは京都残留の嘆願書を守護職に提出、同12日京都守護職御預かりとなった。翌13日に浪士組の清河等は江戸へ帰った。同16日には近藤・芹沢等は黒谷で京都守護職松平容保に拝謁がかなった。8月18日の政変(七卿落ち)の日、武家伝奏より『新選組』の命名とともに市中取締の命を受け、都大路を縦横無尽に走り廻り治安は目立って回復した。新選組の壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝達が毎日のように行われていた。』

『広い境内です』
浄土宗の大本山、承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結ばれたのが、浄土宗最初の寺院 のはじまり。

《山門》

『立派な山門をくぐります。時代劇などのロケでよく使われている山門
』

勢至丸(せいしまる)の像。 法然上人の幼名

『岡山生まれなんだね~』

階段を上っていきます



(鐘楼)

《御影堂》
ここで、御朱印を頂けます。 『 そうそうお寺用の御朱印帳は、金戒光明寺のに決めました
』


《阿弥陀堂》
慶長十年(1612)豊臣秀頼により建立。金戒光明寺のなかで一番古い建物です。恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められています。

『振り返ると京都タワーが見えます
』

金戒光明寺の境内の北の端には「会津藩殉難者墓地」があります。幕末、伏見鳥羽の戦いで、故郷会津を見ることなく散った多くの若者達。ここには入洛の1867年から1868年の伏見鳥羽の戦いの間に亡くなった237人の霊が祀られています。
会津藩の戦死者達は「賊軍」として野ざらしにされていたといいます。しかしそれを恐れず、彼らを葬ったのが上阪仙吉(会津小鉄)と言われています。墓地には墓参した人たちの熱い思いを記したノートが置かれています。
会津藩の戦死者達は「賊軍」として野ざらしにされていたといいます。しかしそれを恐れず、彼らを葬ったのが上阪仙吉(会津小鉄)と言われています。墓地には墓参した人たちの熱い思いを記したノートが置かれています。

『三重塔と住職を激写
(笑)』
三重塔(文殊塔)は、1633年(寛永10年)、徳川二代将軍秀忠の供養ために建立され(国の重要文化財)、黒谷の北西にあった中山宝幢寺(ほうどうじ)の本尊だった文殊菩薩像が安置された。

また、金戒光明寺には徳川第2代将軍秀忠の正室・崇源院(お江)の供養塔があります

《お江の供養墓(遺髪墓)》

『三重塔からの景色
ちょっと、どんより
だけど・・・。左の方に京都タワーと、平安神宮の鳥居が見えます
』

紅葉も、ちらほら色づき始めました
来月中頃には良い感じかな
『そして
金戒光明寺で、一番人気は~「アフロ仏像」

めっちゃ!頭デカ~い
そして可愛い
初めて見た時は、衝撃的でした(笑)』

正式には「五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)」という名で、気の遠くなる程長い時間修行をした姿を現した仏像なのです。
気の遠くなる程長い時間を修行したため、気が付けば頭も伸び放題でこのような大きなアフロヘアーに、なっちゃったんだって

「下から見ると表情が変わる
」

これにて、金戒光明寺を後にします。相国寺に向けて今度は自転車で出発


参道に在る八ッ橋屋
大きい狸がお出迎え(笑)
10分程で相国寺に到着



『相国寺も広~い
あの金閣寺と、銀閣寺も相国寺の塔頭寺院だそうです。』
相国寺(しょうこくじ)は正式名称を萬年山相国承天禅寺と称し、1392年に足利義満が完成させましたが、失火で炎上し、5年後に七層の宝塔を建立しましたが落雷で焼失するなど衰退と再建を繰り返しています。重要文化財の法堂は豊臣秀頼が寄進したものです。相国とは国を助け治めるという意味で、中国から来た名称ですが、日本では、左大臣の位を相国と呼んでいました。相国寺を建てた足利義満が左大臣であったことから相国寺と名付けられたとも言われています。


《庫裏》
いざ!龍図を見に

《法堂》
拝観料を払って先ず法堂の蟠龍図を見に行きます
どど~ん!!
~鳴き龍で有名な狩野光信による蟠龍図~

写真撮影は禁止
なのでサンプルで
『 堂内に入り特定の場所(左の白い敷物の辺り)で手を叩くと『ビュイィィィィィィィィ~』と音が響いて龍が鳴いているように聞こえることから鳴き龍と呼ばれています。
以前、泉涌寺の鳴き龍を体験した事あったけど、同じ様な造りなんだろうな
手を叩く場所が決まってて、その他の場所だと反響しない
また、龍の目もどこから見ても見られている様に描かれています
』
龍図を満喫し方丈へ
いろいろ有名な絵などを拝見しました。
(
撮影禁止)


しばし、境内をぶらぶら

(浴室)

(経蔵)
さて、
相国寺を出発します
つづく。