以下は昨日の読書会で取り上げた内容の一節です。
『古い時代の思想をもっていると霊体は古い振動率に同調する。
だから、まず、思想を新しくする。完全に思想を新しくしたら新しくなってくる。
ふるいものは、習慣という形で人間の中に宿っている。』
個人的な旧観念・旧思想で膨れ上がっていては、過去の時代を生きる人ということです。
集合としての人類は未来に向かって進んでいます。
エノク書には霊的なヴィジョンの中で「生命の樹」のある場所とエルサレムの位置関係が書かれています。ここでいうエルサレムはヴィジョンのなかのものです。
中央にエルサレムがあって、エルサレムの東西南北の場所それぞれに何があるかについて書かれています。「生命の樹」のある場所は東北とされています。七つの山もあることになっています。
エルサレムの東にあるものは、新しい可能性の発現に関するものが発生することが書かれています。
「生命の樹」のある場所が東北とされているのも、興味深いです。
これは、東洋の定位盤と感覚的に同じです。両方に歴史的なつながりはないはずです。この一致は人の感覚は、文化をこえて、共通するものがあることを示します。
エルサレムの東には「善悪を知る智慧の樹」があるというのも象徴的です。
その後、エノクは四人の大天使が四方にいることに気が付きます。
エノク書は古いエチオピア言語で書かれた写本が残っているのですが、
イエスが生まれることは、エチオピアでも「神託」が当時あって、事前に知っていて、使者を送っていたという話がありますので、エチオピアには古くからの霊的な伝統があるようです。
ブラヴァツキーが伝えた秘教部門の教えやインナーグループへの教え、AABから伝えられたことは、過去の観念と異なることが含まれます。旧観念、旧思想を以て、近づくことはできないので、最初は、エポケー的な態度が必要です。いったんは受け取ったうえで、みずから思考し、自由な意識活動をおこなう糧にできるものです。
それ以前に通常の読解力があることはあたりまえの前提です。
神智学協会の秘教部門は当初は組織的には、別の組織と位置付けられていました。それは目的が異なり、秘教を学ぶことをめざし、誓約したものが秘教部門のメンバーになることができたからで、秘教部門の指導は特定のマスターとつながっていました。そのために別組織としてスタートしています。(ただし外側のひとから見れば、内部に形成されたグループに見えます。)
ブラヴァツキーのまわりに形成されたインナーグループはその秘教部門のメンバーのなかから、H.P.Bから招待をうけた人だけが参加できるものでした。
インナーグループの教えはそういった人が学んでいたものです。今回の講座では、そのなかのインストラクションのNo.Ⅳ~No.Ⅵまでが今回の範囲です。
ブラヴァツキーがインナーグループに伝えた教えは、直接的な内容です。直接的というのは、それぞれのテーマについて、直接的に解説しています。たとえば、シークレットドクトリンのように他の書籍を引用したり、比較したり、論証するということではなくて、それぞれのテーマを直接的に、それはこういうことであると解説しています。そういう意味では、もっとも端的に神智学が提示する世界観を説明しています。
参加者の質問に対しても適切に回答を与えています。参加できる時点で、選別されていますので、質問と回答に無駄がないです。
ブラヴァツキーの死後は、神智学のなかのアディアール派のように、おかしな方向に動いた動きがありましたが、インナーグループに伝えた教えを守る人は、そういったことには関与していません。
昨日書いた特別な形体をイメージした時に、メンタル界に大きな力を呼び起こすという原理に
適用されるものは、十字形であるとか、バラの花とか、山の形体とか、ピラミッド型とかが
用いられます。用いられる形は極めてシンプルなものが多いです。色彩もそれに加えられます。
色彩と形が重要なカギになっています。
「人間がメンタル界において意識的に力強くなった瞬間、彼の善をなす力は百番増大する。」
これは、AABの書いた文章です。通常の精神活動においても、以上のことは言えます。
さらに特別な形体をイメージした時に、人の精神の内奥から、より深い次元の影響して、特定の力を点火することにもつながります。社会活動的な意味での善以上の意味が以上の言葉には込められているとおもいます。
エノク書と第4エズラ書は、両書とも旧約の世界から、新約の世界への橋渡し的な文書であり、メシアの予告を含みます。第4エズラ書では預言されているメシアがダビデの家系であることが書かれており、これが福音書のなかのある場面につながっていることがわかります。
エノク書と第4エズラ書には両方とも「生命の木」が肯定的な描写、希望のある文脈で取り上げられます。
「生命の木」については聖書の他の場所にもありますが、とても重要なモチーフになっています。
「生命の木」ときくと後世のクリスチャン・カバラのなかの生命の木の観念を思い浮かべる人がいると思いますが、そういった後付けでつくりあげられた話ではなくて、より根源的なことをここでは示していると思います。
「生命の木」は天と地を繋ぐ構造を示していて、中央の道を意味する「幹」がある構造が大きな枠を形成しています。イエスが教えた「真珠」ともつながりがあるものです。
旧約の世界から、新約の世界への橋渡し的な文書の中で、このモチーフが出てくることが興味深いです。
アリスベイリーの著作ではなんらかのアイデアを述べる時には、指針的なことはしっかりのべますが、一定線以上の内容については明らかにするのはかなり意図的に避けています。
しかし、完全に思考停止した人のなかには、アリスベイリーの著作に書いていないことまで読み取る人も出てきます。七光線論のとくに第3巻目で、そういったことが顕著です。七光線論の第3巻目の冒頭すぐに否定されていることを、声高に主張し始めるという場面に遭遇すると、文章を読み取る能力がないととんでもないことになるなあと、感じることがあります。というより、文章が読めてない人が大半だと感じます。思考以前の段階で自分で作った迷路を主張する人が多いです。
一定線以上の内容については、アリスベイリーの著作には、誤用を避けるために、慎重な表現になっているのです。アリスベイリーの著作を研究しているという人ほど、多くの誤解があるといえるでしょう。
ただし、そういった問題は、本を基にした研究者の問題であり、示された指針のもとで実際の働きをなしている人々の問題ではありません。
以前取り上げた話題に、ヤコブベーメによる善と悪の考察があります。善なる意志により無から創造されたとすると、なぜ悪が存在するのかという問いについて、ヤコブベーメは宇宙の成り立ちから説明しているという話ですが、同じことを東洋思想でも問題にしたながれがありました。そのときは「理」と「気」の二つの概念のなかで、説明しています。
両方に共通するのは、考える論理の中に階層性を持たせていることです。階層性がないと考えがあまりに平坦になって、考察ができなくなります。人間が考えることですから、言葉が違っても、東洋でも西洋でも同じことを、類似した方法で考えるという例になっているのが面白いところです。