私はたまたまいまサンフランシスコからボストンに帰る途中、
ワイオミングの上空約3万フィートを飛ぶ飛行機のなかでこれを書いている。
窓の下で地球は、非常に柔らかく心地よさそうに見えるーー
綿毛のような雲があちこちにあり、
日が沈むなかで雪はピンクに変わり、
道路はひとつの町から次の町へと田園のなかを真直ぐに延びている。
これがすべて、圧倒的に敵意に充ちた宇宙の小さな一部にすぎないと実感することは非常に難しい。
この現在の宇宙が言語に絶するほど未知な初期の条件から進化したものであり、
限りないほどの冷たさ、あるいは耐えられないほどの熱のなかにいつかは消えてゆく運命にあると実感するのは、さらに困難である。
宇宙が理解できるように見えてくればくるほど、それはまた無意味なことに思えてくる。
しかし、もし私たちの研究の成果に慰めがないとしても、
研究そのもののなかに少なくともある慰めがある。
人間は神々と巨人たちの物語で自らを慰めることや、
自分たちの考えを日常の生活のなかに閉じこめることでは満足しないーー
人間は望遠鏡や人工衛星や加速器をつくり、
自分たちが集めたデータの意味を解こうとしていつまでも机の前にすわりこんでいる。
宇宙を理解しようとする努力は、人間の生活を道化芝居の水準からほんの少し引き上げ、
それに悲劇の優雅さをわずかに添える非常に数少ないことのひとつである。
Steven Weinberg "The First Three Minutes"
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数日前、
そこで某国語教師との会話中に、
「でもまあ何だかんだでもうすぐ卒業(見込み)です」
「そっかぁ安心した! 最終的には物理の道に進んじゃうかとばかり思ってたよ…」
と言われ、驚くとともに懐かしい気持ちになった。
…当時の私は、物理学者になりたかったのだ。
(※言うまでもなくノーベル賞を獲る気満々である)
しかし諸々の事情により物理学科は受験せず終い。
その後の二次試験では、物理と生物の問題を見比べ
「どう考えても生物の方が点取れるわこれ…」
という冷静かつ悲惨な判断を一瞬で下してセンターの知識で生物の問題を解く羽目になってみたり、
大得意(笑)な数学で華麗に零問完答してみたりと…
物理の道を選ばなかったのは明らかに正解だった。
…こうして私は悪い夢から無事に醒めたわけだが、
どうやら(狭義の「夢」とは違って)こちらは若干の後遺症が残ってしまうものらしい。
通り過ぎてきた全ての夢にさよならの挨拶を済ませられないまま、今に至っている。。
数ヶ月前つい衝動買いしてしまったこの本…
読破できるのは果たして何年後になるだろうか?
(※なお買ったこと自体は露ほども後悔していない)
卒業までの半年で、発作を出さないといいけれど。
p.s.
将棋もまた、人間の生活に悲劇の優雅さをわずかに添えるに足り得ることを最後に付記しておく。
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