【 特攻のメカニズム 】悲惨・勇壮・忠誠で戦争を美化する勿れ 戦争の非を覆うこと勿れ | 少年飛行兵 と 私 第二幕〜Thoughts About Peace

少年飛行兵 と 私 第二幕〜Thoughts About Peace

2014年、突然閉鎖したブログ「少年飛行兵と私」
特攻隊員だった「彼」の遺志を確かめた僕は、「少年飛行兵と私 第2幕」として新たな旅を始めます

今日、またピースあいちを訪れました

 

 

先日来訪した際、この講演会があることを知りまして

 

 久しぶりに加藤記者とお会いしました

 

加藤記者のことは一昨年記事にしたんですけれども

 

 

動画もありますのでよろしければこちらも

 

 

私の特攻へのアプローチは

私が「彼」と呼ぶ特攻隊員の一生を辿って、

ご遺族や彼を知る人を探して各地を訪ね歩き

 

彼の部隊、誠第32飛行隊・武剋隊と

その隊員たちの痕跡を追い、証言を集めて

特攻とはなんだったのかを見つめることでした

 

加藤記者のアプローチは私とは全く違うもので

「出撃した、しかし生きて還ってきた」

特攻兵に焦点を当て、その証言を集めて

 

特攻作戦の理不尽さをえぐり出し

それを現代社会の問題点に投影して考察しておられます

 

ただアプローチは違えど

「特攻とはなんだったのか」を単純に表現することはできない、

という認識は共通しています

 

今日の講演で加藤記者はこんなことを話しておられました

 

隊員の生い立ちや育ってきた環境はそれぞれ違う

隊員の考え方は一様ではない

部隊それぞれ隊長の考え方も違う

 

その通りなんです

私は彼とその部隊については、おおよその状況は把握しています。

でもそれが全ての部隊に当てはまるかというとそうではない

これまでお世話になった少年飛行兵の方々のお話も一様ではありません

特攻志願や出撃前の状況も部隊によって、隊員によっても違うんですよね。

 

世間一般で語られる「美談」とはほど遠い、醜い話もあります

かといって、「美談」を否定するものでもない

 

 

彼の部隊:誠第32飛行隊・武剋隊

 

武剋飛行隊は、

翌二十七日朝五時三十分離陸

嘉手納湾に遊弋する敵艦船群を攻撃してこれを必沈すべし

 

昭和20年3月26日夜、この久得橋のたもとの兵舎で

 

彼の部隊に出撃命令を下した神直道参謀は

戦後、特攻を指揮した立場としてこう振り返っています

 

大本営に在籍して、

沖縄における航空作戦について一つのビジョンを持っていた私にとって、

 

あまりにもかけ離れた結果を見せつけられて

悲憤と反省とが交錯していることもある

 

(しかし)

私は特攻で散華した人々を口を極め筆を尽くして称えても、決して尽くし得ると思わない

 

数例を傍証して特攻隊員の心理を推理分析したところで

何になるものでも無い

 

私には操縦時間の短い、未だ一人前と言い得ない多くの操縦者が、

 

古ぼけた、ヨタヨタの飛行機に乗って敵艦船に一直線に立ち向かった姿

ーそれはまさしく神鷲であったー

が網膜に焼きついて離れないのである

特攻の表と裏の両面を見事に言い当てていると思います

 

 

写真:沖縄県公文書館所蔵

 

特攻って、出撃命令が下れば

それすなわち自分の墓に刻まれる命日となります


それでも、特攻隊員は

少なくともそれで亡くなった日はわかりますし

突入した場所の目星はつきます

 

しかし南方で命を落とした方々は

遺骨はおろか

いったい、いつどこでどんな亡くなり方をしたのかすらわからない方々がたくさんいる

 

沖縄戦で

「とてもご家族には言えない」

亡くなり方をした日本兵もいる

 

それが、戦争です

 

彼のご遺族はこう話しておられました

 

国から渡された遺骨箱の中に入っていたのは

「⚫️⚫️の魂」

と書かれた赤い紙切れ一枚だった

 

あの戦争のほんの一面だけをみて

勇壮や忠誠といった部分のみとりあげて美化し

抑止力だ核武装だと勇ましいことを語る政治家が目につきます

 

自分が、自分の子や孫が

悲惨な最期を迎えることを良しとするならばそれも結構ですが

 

その覚悟がないのなら

人気取りのために勇ましい発言をなさるのは

お控えになった方がよろしいかと思います

 

 

ちょっと今日は

加藤記者と話して感じたことを記してみました

 

今日はさっくりと、このへんで

 

今日も最後までありがとうございました

 

では✋