沖縄米軍上陸点附近ノ
敵戦艦ヲ必沈攻撃スベシ
80年前の今日、昭和20年4月2日
彼の部隊ー武剋隊 後続隊6名に出撃命令が下りました
出撃は翌3日 15:30
すでに4月1日、福澤大佐の指揮のもと
誠第39飛行隊6名がここ新田原から薄暮攻撃を行い戦果を上げたことから
福澤大佐は武尅隊 後続隊も同様
薄暮、敵の警戒の隙を突く作戦を選択しました
福澤大佐は出撃前夜の様子をこう記述しています
(「陸軍航空の鎮魂」航空碑奉賛会 1978年 272-273頁)
特攻隊員の出撃の前夜には、
関係隊員のため壮行会を開催した。
地上勤務部隊の心尽くしの夕食と
地方団体より寄贈の酒肴を供し、また
婦女子団体より特別の申込みの接待を受けて...
しかし
隊員たちは物静かだったようです
そりゃそうですよね
明日自分が死ぬことがわかってる
明日が「自分の命日」になるわけですから...
このとき、実際に宴席の手伝いをした高鍋高等女学校(現・宮崎県立高鍋高等学校)の女生徒の証言を
作家のきむらけんさんが見つけてくれています
(既出・きむらけん「忘れられた特攻隊」彩流社 2014年 226頁)
特攻隊出撃の前夜は特別の大御馳走がありました。
ビフテキ、エビフライ、さしみ、など
本当に目をみはるものばかりのもので
「日本のどこにこんなものがあるの」
と皆で話しました。
盛り付けの皿も洋皿の美しいものでした。
それが殆ど手つかずで残っているのです。
これまたびっくり、なぜ食べないのかしらと、勿体なく思いました。
終鈴と共に、6人は寝室へ
そしてそのあと...
彼は両親に宛てて遺書を認めました
父母上様
御別れ申上げます
二十年の間色々御世話に相成りましたが四月三日愈々出陣です
勿論特攻隊ですから生きて再び皇土には歸りません
精神だけは永久に止りて米英撃滅に努力します
待ちに待ったこの命よろこび御想像下さい
隊長殿はじめ戦友九神鷲はすでに紙上にある通り
武剋隊大戦果です
残った吾等が隊長殿はじめの弔合戦です
四月三日の命日には地獄の道連れに敵空母をやっつけます
生を享けて二十年父母様に対して何一つ出来なかった事
學校にばかり通って遂いに親の世話のみ受けて申訳有りません
深く御わび申します
(中略)
大日本帝國のため悠久の大義に生きんとして新たなる希望に燃えてゐます
四月三日を一期とする英實は幸報です
大日本に生れ来た甲斐もこヽにあります
敵米英何ものぞ何万あらうと決して恐るヽに足りません
特攻ある以上絶対に日本は敗けません
父母上様つヽこんだ後も死に対してその戦果、最后によくやったと云ってやって下さい
それが何よりもうれしく思ひます
女々しい事を云はないで下さい 絶対に犬死はしません
愛機と運命を共にするも後十数時間に迫ってゐます
父母上様御先に失禮致します
御身御大切に益々勝つために御健斗の程御祈り申上げます
(中略)
恩深き東條様(註:東條英機)にも呉々もよろしく
御恩に深く感謝して居ります
どうぞ御禮申上げて下さい
よろしくと云ってゐると申して下さい
では皆様さやうなら
南立、中村、吉竹によろしく
大峯の方々 山田の方々によろしくお願ひします
昭和二十年四月二日出撃前夜記
宮崎縣竜湯郡新田町
新田原航空路兵站
(*「生を受けて二十年」とありますが、実年齢は18歳でした)
人生最後の夜を過ごしたこの八紘荘
出撃まで
あと十数時間
彼の脳裏に去来するものは
なんだったでしょうかね...

