【 世田谷・用賀・東條邸 】 別れの挨拶 〜 往く人の思い、ご遺族の思い | 少年飛行兵 と 私 第二幕〜Thoughts About Peace

少年飛行兵 と 私 第二幕〜Thoughts About Peace

2014年、突然閉鎖したブログ「少年飛行兵と私」
特攻隊員だった「彼」の遺志を確かめた僕は、「少年飛行兵と私 第2幕」として新たな旅を始めます

彼のアルバムの表紙裏

丁寧に貼られた一枚の紙

 

後ろに一枚の写真が...

 

外泊證明書

 

官氏名  陸軍兵長 

理 由  墓参

行 先  東京都世田谷区玉川用賀町

     東條英機方

 

右ノ者  自 二十年二月二十一日 

       十二時0分

     至 二十年二月二十五日 

       十八時0分

ノ間外泊ヲ許可シタル事ヲ証明ス

 

昭和二十年二月二十一日

と号第三十二飛行隊長 陸軍中尉 廣森達郎

 

 

武剋隊隊員15名が整備班に遅れて各務原から松本にやってきたのは昭和20年2月20日

 

到着するとすぐに、各隊員に5日間の休暇が出されました

 

親きょうだいに連絡をとり、故郷に帰って別れの面会ができるよう...

 

ただ

郷里が遠いこともあり、また特攻隊員であるが故に親に心配をかけたくないという気遣いから、ほとんどの隊員は、連絡をとることすらしなかったといいます

 

しかし、彼は違いました

 

外泊証明書にある通り

向かった先はこの場所

 

 

彼の母親は東條英機の妻・カツと同郷

その縁で、三軒茶屋で生まれた彼は

幼少期から用賀の東條邸に出入りしていたそうです

 

父親の仕事の都合で福岡県の川崎町へ転居しましたが

東京陸軍少年飛行兵学校に入校してからはカツ夫人が東京で母親代わり

 

彼のご遺族もカツ夫人のお手伝いとして

東條家へ奉公に出ていました

 

「あの頃は汽車の切符がなかなかとれませんでね、

総理に一言言えばすぐ手に入ったんでしょうけれど

 

なかなか九州の家に帰ろうとせずに、

総理のお宅にばかり出入りしていました」

 

ご遺族はそう話されていました

 

 

アルバムの表紙裏

外泊証明書の後ろに写真が挟まっていました

 

80年前、別れの挨拶に訪れた

この場所で撮影されたもの

 

 

右から2番目が彼

その左がカツ夫人

その左がご遺族

手前左に写るのが東條

 

穏やかな表情でこちらを見つめる彼

和服姿の東條は、どことなく寂しそうに感じます

 

このとき何を話したのか

ご遺族は何も語りませんでしたが

 

彼のことですから

きっと、「立派にお役目を果たします」

そんな決意を口にしたんじゃないでしょうかね

 

東京陸軍少年飛行兵学校の卒業式には

首相代理としてカツ夫人が祝辞を述べました

前例にないことでした

 

アルバムに外泊証明書を丁寧に貼り付けたのは

東條から受けた恩を心に刻みたかったんでしょう

 

 

以前ご遺族にお会いしたとき、

こんな話を聞かせていただきました。

 

「二階の部屋で弟のおむつを替えてましたらね

赤い火の玉のようなものが近づいてきて

 

ガラスの窓にぶつかって

「バシャーン」

って弾け飛んだんですよね

 

ああ、兄が死んだんだなあ...

って

 

特攻だってことは知らされてましたから...」

 

 

「特攻作戦は東條さんが考えたんだと思ってました

 

東條さんに可愛がられて

東條さんに命をとられたんだと...

 

ずっとそう思ってました...」

 

 

そして、こんなやりとりがありました

 

私が彼を「英霊」と呼んだときのことです。

 

ご遺族の目つきがキッと変わったかと思うと

強い口調でこう話しました

 

「あなた今、『英霊』という言葉をお使いになったでしょ。

 

英霊なんかじゃありませんよ。

 

今の戦争を知らない人たちは皆さんその言葉をお使いになりますけれど。

 

そんなに軽々しくきれいごとを言わないでください。

 

戦争は

そんな甘いもんじゃないんですよ。」

 

あの東條家で戦争の状況や政界の裏までを垣間見たご遺族の言葉は

これまで話を聞いた誰よりも重みがありました。

 

 

しばらく手紙でのやり取りが続きましたが

 

戦争で家族を失った悲しみや去来する様々な思いを

切々と綴っておられたのを思い出します。

 

 

戦争は

そんな甘いもんじゃないんですよ

 

 

この言葉は

今も私の耳に残っています

 


結局、市民にとって

戦争で得られるものは何もないんですよね


いつの世も…