第四章 沖縄の海(2)
【 特攻とは 】②
慰霊祭の際の世田谷観音・特攻平和観音堂
前回の記事で「特攻」として認定された戦死者数を記しました。
特攻とは飛行機による体当たり、と一般的に考えられていますが「特攻作戦全体」というくくりの中ではそれによる戦死者はうち六割なんですよね。
ここで第二章でも少し触れた世田谷観音寺と特攻平和観音についてお話ししたいと思います。
世田谷観音寺には本堂の左隣に特攻平和観音堂があって
「特攻平和観音像」が二体安置されています。
向かって右の一体の胎内に陸軍、左の一体の体内に海軍の特攻戦死者の霊名を記した巻物が納められていて、慰霊祭はこの特攻平和観音堂の前で年二回、春と秋のお彼岸前後に挙行されています。
実はこの特攻平和観音像は知覧にある特攻平和観音像と同じものなんですよ。
この経緯についてはほとんど語られていないので説明しますね。
(公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会「特攻平和観音と世田谷観音寺」から引用・抜粋させていただきます。)
沖縄での特攻作戦(天號作戦)真っ只中に軍令部総長(海軍の作戦計画遂行の総責任者です)だった及川古志郎元海軍大将は、戦後特攻戦士の慰霊のために平和観音会(紆余曲折を経て現在の公益財団法人・特攻隊戦没者慰霊顕彰会へ)を設立して観音像の鋳造を思い立ちます。
そして法隆寺の許可を得て同寺の夢違観音像を縮小模写したのが現在の特攻平和観音像で、108体の鋳造を依頼されたそうです。
及川元大将は陸・海軍それぞれ二体ずつ、計四体を譲り受けることにしました。
最初に出来上がった二体は音羽の護国寺で開眼供養を行なって同寺内に安置されたんですが、資金難から維持が困難となって同寺を離れます。
その後浅草寺など有名なお寺に移そうと試みますが次々と断られたんですね。
最終的に世田谷観音寺が引き取ることになって、旧皇族の華頂宮家にあった寺念仏堂を移築してここに二体を納め、特攻平和観音堂となったわけです。
二体が納まる厨子の正面扉には宮内庁の諒承を得て菊の御紋章が飾られているんですね。