ーー原子核(=陽子と中性子)の集合体であるエクサピーコ(≒魂)のどれだけかが正常でないスピンをしていると同時に整合していないと、それがエクサピーコの表現形である肉体に転写、現象として現れるのだ。ーーこの状態を整状ということにする。
ここまで明らかにすれば、即座に察せられると思うけれども、したがって、肉体の陽子と中性子が、同時に空間の陽子と中性子が、魂(エクサピーコ)の陽子と中性子の状態に共振するのである。
逆の言い方もしておこう。
魂(エクサピーコ)の陽子と中性子の状態が肉体の陽子と中性子に、同時に空間の陽子と中性子に転振するのである。
原子核の集合体である魂(エクサピーコ)の愛度や調和度が具現化する。実が現われるのである。
(『実』が霊魂の世界で『現』が物理世界。この世はあの世の『うつし世』であるの「うつし」は「現」と書きあらわす)
陽子と中性子個々の回転と原子核の集合体全体の配列の《整い度》が物理世界すなわち空間や肉体に転写され形を持つのである。それが電子を伴なうと物質化するのだ。
そうやって健康具合や金銭収入といったことも含む豊かさの程度を創り出しているというわけだ。
このメカニズムを理解するとどういうことが言えるか?
魂(エクサピーコ)を構成する要素の一つである中性子が不安を選び、陽子のスピンが変化し、全体の原子核の配列が乱れるところをイメージして欲しい。愛の状態が崩れ、乱れ、科学的な言い方をすれば「周波数が変化する」と、それが空間や肉体に作用する。
不安や恐れに基づいた観念・信念・認識で常時エクサピーコを乱し、病気が症状として肉体にも像を持つ。
ここについてはもう少し研究の余地があるのであるが、たいていはエゴを用いるからなのであろうと推理する。
低く暗く狭く固い、要するに陽子や中性子が歪みに歪み、原子核の集合体の配列が崩れれば崩れるほど、深刻で重篤な疾患を肉体に形作るというわけだ。いわゆる治りにくい難病の類であろう。
同様に、現実の人間関係や収入や支出においても不調和で不平不満の多い状態が作られるのだ。
今、メカニズムを知った皆さんは、それを予防し、それどころか本心で望む状態を創り出せもするし、好ましくない現状を好転させることもできるようになったのである。
我(エゴ)が中性子と結びつき陽子に影響を与えているのではないかと推測される。わたし(スーパーエゴ・超自我・大我)との間にはハイヤーセルフや守護神などが在る。それらは、自然な自分で在るのを常に勧めているが、暗く小さく狭く固く偏った、得手勝手で自分だけ自己中心で特別に悲惨な被害者であるドラマを作り出すエゴが自分だと信じれば、それに見あった現実や感情や体験を創造する。現実を肉体の延長戦と見なすならそれらを総合して身体と呼ぶことができる。私の居るところ、肉体も場所も全て魂の写しである。
エゴにいつもいつも顔を出させ、でしゃばらせるのが自分であると、自分で選んでいる。
陽子そのものが自分なのか、陽子にそれを選ばせている存在があるのか?
こんな風に表現すれば、自分とは何か? という問いに発展しそうであるが、コレという特定したもののない自分が自分を定義・選択しているとしか言いようがない。誰が選んでいるのかと言えば、誰でもないが、紛れもなく自分自身であると思うしかない。
エゴが自分なのかと言えばちがう。が、エゴを自分だと決めることは可能だしそうしている人も多い。
ハイヤーセルフが自分なのかと言えばちがう。が、それを自分だと選ぶことも可能だしそしている人は比較的進化度の高い状態にあると言える。
守護神が自分なのかと言えばちがう。が、それを自分だと選ぶことも可能だしそしている人はさらに進化度の高い状態にあると言える。
この文章は延々とより高次のセルフへと無限に収斂・積分していきそうだ。
行き着く先は創造神を含んでいながら全てでないゼロの状態、自意識のない、THE ONEとでも表現するべき存在であろうが、その分け御魂とでも言うべき自分が自分を選択しまた再選択していると想像するしか道がないように思える。
それ故に、いにしえから「人間は皆神である」と伝えられてきたのだろう。
「自分はーー、」と言うとおごそかな空気が漂うのは「自分」がカミゴトにかかわっているからではないかと思える。
あるようでないようでないようであるといった感じだ。エクサピーコ=原子核の集合体を構成する陽子や中性子が自分自身なのか? いや、それを俯瞰する視点がある以上、それらは自分の投影にすぎないのかもしれない。
自分というのは、不確定なものでありながら、ともかく、その明確でない自分が明確に私を選び決めている。
共通の《わたし》が千差万別の『私』を選んでいる。と表現することもできるにちがいない。
そしてそれはありとあらゆる意識を内に含んでいる。自分という概念は、トーラスエネルギーの循環のように行き戻り戻り行くのだろう。
エクサピーコ(≒魂)を形成させるエネルギー体、ベースとなっている意識と意志、それが「自分」の本体なのかもしれない。が、物理的には説明がつかないだろうし、精確には分からない。
ともかく、今現在私に起きているすべては、自分で選んで生じさせていると思うしか手立てがないのであろう。
自分とは何か、どこにあるのかが不明であり不確定でありながら、それでもやはり私を決めているのは自分である。
エクサピーコ(魂)はどの領域にあるのか?
霊体側=実にも密度や次元の差がありグラデーションを分けると、肉体に接しているところからエーテル体・アストラル体・メンタル体・コーザル体・ブッディ体・アートマ体・コズミック体などと呼ばれている。外側に描かれるほど精妙なエネルギーとなる。
おそらくエクサピーコ(魂)は肉体と高次域の間にあり、より高次のエネルギー(波動・情報)を得ているのだろう。神霊学では、魂はブッディ体にあるとされる。ならば、ハイヤーセルフがアートマ体、それ以上が神域なのかもしれない。ともかく、エクサピーコ(魂)がひとまず高次の波動・情報を受けているのは確かで、それ以下、特に肉体意識(エゴ・顕在意識)が観念で捻じ曲げ低めている。ところが現世では、恐れやエゴに基づいた3次元的観念の固い人ほど「頭の良い人」とされる。
あらゆるレベルで自分にとって最も好ましい事態を体験したいなら、魂の自然な状態を邪魔しないことではないか。
自分でやっていながら、幼い自意識の人ほど「これは自分じゃない」「自分のせいではない」と思うが、それもあながち間違ってはいない。が、個を有した一人の自分である以上、自分で決めて体験していると見なすしかないのではないかと思うばかりだ。
この世に来るまでは全体の中でなんだか曖昧な自分を感じていたのだから、ひとだまになって間がない人にはそういう感覚が色濃く残っているのではないか。この世でこそ、「私」を明確に自覚できる。であるなら尚更、個としての自分を楽しむには、エゴも神意識も全部認めて使い分けた方が面白いのではないかと思う。使い所を的確にして。
私とは何者か。すなわち、愛をどのようなものとして意識しているかがそれなのだろうと思う。
正常なスピンをしている陽子と中性子の量を増やし、その配列を整えていくことが放射する波動の周波数を高める、愛の度数をあげていることだと観て、そうなっていくように創意工夫と行動をすることが、何事を達成するにも最短であると思う。
おのずとブロックは外れ、自己イメージは高くなり、より高次の愛を振りまき、それに見あったものを引き寄せ、思ったことがすぐに実現し、幸せの実感度が高まる。宇宙は豊かであることを認めざるをえなくなり、感謝しないではいられなくなる。
それはまた、私とは何者かを表すことでもある。
自分が愛を決め、愛が自分を決めている。私とはそういうものなのだろう。
エゴ(顕在意識)をなくす、というよりエゴを愛らしくする、とも言えるのではないか。
エゴはそのままで高次とつながるというイメージでも構わないのだろうが、
その《自分》が、陽子や中性子を整状化しエゴを愛らしく進化させることでおぞましく表現されなくなるのではないか。
そうなれば、本当の自分との分離が減り、ストレスが少なくなり、したがって体内で作り出す毒も減るのであろう。
エゴの強い人によくある勘違い。愛は、お前のエゴを満喫してやるサービスではない。神がお前の奴隷でないように。神とは協力しておこなう関係であり、愛であればあるだけ機能的で調和そのものとなる。
ここでクイズを出しておく。なぜなら、自分がエゴで言動している自覚のない人がそれなりにいるからである。
問い 次の言動はエゴに基づきますか、それとも愛に基づいていますか。
家族が病気で伏せっています。そこに見舞客が現れ「これ、食べてください」とまんじゅうを差し出した。家族にはアレルギーもなく、過去の遺恨もなかった。まんじゅうを食べられないこともなくむしろ好物だった。受け取った者が、
A 「私はこれ食べないから持って帰って」と暗い顔で差し戻した。
B 「じゃあ、さっそくあげようかしら」とニコニコして家族の方を向いた。
正解を確認するまでもないことであるが、世の中には自覚のない人もいるのである。どんどんどんどん眼をつぶっていくとこの調子で自分のエゴのためには他人は殺しても構わないくらいの勢いでいる。
今から自分のすることが何を出しているのか検証せずにやると平気でエゴべったりの低い周波数を放つことになるのである。そうしておきながら「誰も私には親切にしてくれない」と嘆くのだ。
Aがどう取り繕い口で否定しても、修羅畜生、幼稚な精神の選び主にちがいないのである。家族に与えた後、残った物を食べきれないから、といった配慮があったとしても浅才さは免れない。
病気・病症をつくる要因の一つにストレスが挙げられる。
ストレスは毒を作る。ストレスは主に内面が原因である。すなわち、本当の自分から分離した状態が選ぶ浅はかな信念が陽子や中性子を歪める。まずエクサピーコの、それから肉体の。外側の事象によってストレスがかかっていると思うのは錯覚の場合が多い。あらかじめ私の選んでいる見方や感情によって反応が起き、体内に毒も作るし薬も作る。なにごとがあっても、まずは動じないと決めておき、精確に観察し、最適・最善の選択、行動をするなら、ストレスはない。
また、歪んだ魂が歪んだ精神と信念を選び、それが食物をも選ぶ。
無知も歪みの一つである。外側の事象や権威ある人々の意見や根も葉もない噂に右往左往し体内に毒を持ち込む。
歪んだ魂そのものが毒を作るメカニズムを発動させ、同時に外から毒を摂取するように働く。
健康にたとえるとよく解る。同様のことがお金に関しても起きていると思えないか。それは延長された表現系、身体の一部であるのだから。
富、豊かさなどというものは、すでに存分にある、充満していうと気づくことに始まるのであろう。にもかかわらず、どうしてカネにだけこだわるのか? なぜ、カネを通してしか得られないと決めつけるのか? そして、こう聞くとすぐに「なら、あんたカネ要らんとな?」などと極端な病気を発してまで豊かさを放棄し味合わない。
まずは人間、あるいは『大人の精神』(他のせいにしない・言い訳しない)、指数で言えば200であると決意し、自分がそれにかなっ思考と言動をしているか、外に何を放っているかを見張る。物事を中立・公平に観るのが変化を速くする始まりに思うからである。
魂(エクサピーコ)の成熟度を転生した回数に比例するかのように説明する人があるが、必ずしもそうではないし、決意いかんによっては瞬時にアップするのがアセンションの季節なのだと思う。
人間は元々ヒトダマになったから人間として生まれてきているのであるのが物理世界の物事の見え方や現世の方便で地獄に落ちるのであるとするならば、ひとまず人間の心に戻るのはそう難しいことではないように思う。そこまで戻って定まれば(つまり、これが私であるという確信)魂の雪だるまは急速に大きくなりうる。
そうなれば不安に引きずられ恐怖にさいなまれることも少なくなり、不動の心を取り戻すのではないか。どんなに暗そうに見えることに対しても、その不安の裏にある愛の側面を観て、創造性を発揮出来ると嬉しくなるかもしれない。
この段階は「自分の眼で物事や人物を観る」あるいは「自分でものを考える」といったことのスタート地点でもあるだろう。噂や、否定的な、恐れに基づいた見方を嗜好する癖から昇華したのである。
精神年齢で言えば18歳から20歳となった時から本気で人生をスタートしたのであり、多くの人がスタートラインの前で躊躇し、行こうか行くまいか熟慮してはループしている。そして意を決して先にスタートした者に指をさし「あんなことしたって無駄」とか「ほうら、やっぱり失敗したろ」「やり始めたことをすぐにやめて」などと馬鹿にしあざ笑うのだ。責任を押しやり他のせいにしている限り、有益なこともないし、失敗すらできないのである。また、何をやり始めたかなど全くみえていないのだ。
