この間、バイクのレストア動画を観ていると「それが大人なら、大人になんかならなくていい」と吐く人にふたり続けて出会った。

元ネタは、バリーの『ピーターパン』あたりだろうか、わたしの10代の頃には盛んに耳にした言葉だ。そういえば『大人は判ってくれない』というフランス映画もあったな。それが反戦・反核ヒッピー文化とあいまって全共闘運動あたりに流れ込んでいたのかもしれないなあ、などと考えた。

昭和20年以降、日本はアメリカを通して白痴的文化が浸透していったし、昭和50年代の終わりから、物余り・飽食・ミーイズムが指摘されていて、それまでの固い生活様式と『自分探し』や『自分らしさ』が相克していたのだろうか。Let it be とかいう歌を唄っていた人もいたしね。自由や自分らしさが声だかに叫ばれた一方で、よほど周囲の大人があれやこれや強制したり型にはめようとしていた時代だったのかもしれない。学歴主義みたいな時期もあったし。

ともかく、1970年代とか80年代にはそんな気分が流行していた。

 

動画の主たちは、新しいことにチャレンジしているのにそれに水を差すようなコメントしてきて不愉快だった、ということらしい。いずれも30代の人で、いまの時代は30代でもあのセリフを吐くのだな、とちょっと驚き交じりで気に留まったのだった。僕たちの時代には、15才くらいまでの思春期の人が白くセリフと決まっていて、小説やテレビドラマなどで10代の少女が涙ながらに叫んだりしていたので、僕には20過ぎて口に出したら恥ずかしい、そんな思いがあった。たとえば40歳のおっさんがそんなセリフを吐けば即座に「お前は、大人か、大人になりきれなかった大人の、どっちかだ!」と言われるのが落ちだ。それででちょっと意外性を感じたのであったが、いや、30代の頃の自分にもそういう気分がないわけではなかったな、と思い返す。

ちょうど満を持したチャレンジを始めた時期で、無理解な周囲に、仕方ないなと思いつつも凄いなと思わないでもなかった。(よくもそんな甘えたことを平気で自分より若輩の者に言えたもんだ、と)もちろん、僕がやり始めたことを知った時、すでに自分の道を歩んでいる人が否定的なことを口にしたことはなかった。世間に流されている『自分のない』人たちがここぞとばかりに勝ち誇り、したり顔で悲観的予言を呈したものだ。僕が僕をやり始めたという事実が、雑多な群衆の中から本物を見つける試験紙のようになり、本物と贋物(本物予備軍)をくっきりと色分けできたほどだった。自分をやり始めた者が本物で、まだスタートを切らずに何事もパクっては都合が悪くなると他人のせいにしている人が、文字通り、贋物なのは言うまでもない。

 

だからもちろん不甲斐ない年配者に遭遇しても「それが大人なら、大人になんかならなくていい」などという言葉で表現していた記憶はない。むしろ、20も越しているのに自分のやっていることの異見を聞いたからといって、いちいち真顔になってそんなことを言う輩には「大人になれよ」と言いたかった方だ。さらには「あれは大人ではない。幼稚なまま止まった人だ」と認識を改めるよう助言するにちがいなかった。

17歳のころに担任教師が質問してきたので将来の構想を語ったら「子供みたいなこと言って。みんなが自分の好きなことをしたらどうなる? 社会が混乱するぞ。お前の夢は趣味にしておけ」などと説教してきたことがあった時も、怒りと悲しみは覚えたけれど、それが大人になることならーー、などとは思いもしなかった。こいつは、進路指導の仕方を知らんな、と見透かしただけだった。「羹に懲りて鱠を吹く」金珠を股座に挟んで手前勝手な押し付けばかりする小物だからこそ、学歴を盾に生徒を見下し、つまらぬ押し付けをするのだ。案の定、生徒のパワーの引き出し方をわきまえないその教師の進路指導はどれもこれも失敗に終わり次の年には担任職をおろされた。ざまーみやがれ、とは思わなかった。僕らは彼が何をすべきだったか、身をもって教えてやったので、何も言うことはなかった。青年の心意気を過小評価してはならない。

 

視聴回数で変動する収入をアテに生活している動画の主にしてみれば、いやしくも視聴者に向かって本当のことを言えるものでもないし、確かに自分にも子供の部分はあると思えばこんな言い方になるのかもしれないが、もしかすると思春期は30代にまで引き伸ばされたのかもしれないと思わないでもなかった。社会的にも32くらいまではギリギリ子供であることが許されてはいるだろうし。

いつの頃からか僕は、子供のまま成長不良になるのでなく『大きな子供』になるんだ、と思ってきた。文句を言ってきた相手と道づれ心中するために、自分の方が幼稚な子供に成り下がってどうする? と思っていた。「カネか夢か分からない暮らし」などと反省することもないし「愛することと、生きる為にすることの」区別を迷うこともない。

愛とか調和とか創造性とかを中心にすえた上で、世間的常識も踏まえ、より高く進化していくのだ。より『本当の自分』に成っていくのである。それがまあ、ニーチェの提唱する『永遠回帰』とでも言うのか知らんが。愛とか調和とか創造性とかを恥ずかしがるのは幼稚な証拠で、真顔でそれらをやるのが自分自身すなわち大人のスタートなのだ。こんなことをやっても、人間社会の中では何も評価されないどころか唾棄され爪弾きにされる。だからこそ、自分が何をやっているのか、何者なのかがハッキリするのである。

 

まず結論から述べておこう。

新しい自分にチャレンジしている人に文句を言う者が生じたということは、

 

第一に、あなたは紛れもなく『新しいこと』をやっている。

第二に、彼らはあなたが羨ましい。嫉妬している。同時に自分がみじめに思えている。

第三に、ファイナル・アンサー

 

もし新しいことを始めた自分に足を引っ張るようなことや全否定や嘲笑を投げかける人がいたとしたら、このように思って相対化すればいい。

 

第三のファイナル・アンサーについては少し補足説明しておこう。

否定的なことを言う人がいたら「それでもあなたはやるのですか?」という問いかけを彼らはしているのだと取るのである。「やる」という決意が新たに熱い、確固としたものになるのか、フラフラして元の木阿弥となるのか。ファイナル・アンサーが投げかけられる度に自分に問い直すのだ。そうして芯が太くしっかりしてくれば、その内、誰もこの問いかけをしてこなくなる。(そして逆に、自分をスタートした者にチヤホヤ共感してやるどころか、あえて質問を投げかけてやってもよい。それが愛だと思うから)

だが、スタートラインに着いて笛の鳴るのを待っている賢明なるあなたは、よちよち歩きの先輩をなじってはならぬ。先人の歩行した様をよくよく研究するのだ。スタートを切った時に足にすがりついてくる者たちをいかにふりほどくかまで用意しておけ。(すなわち、世間や俗人をよく研究しておくのである)先に歩み始めた人を咎めると、自分がやる時に自分の言っていたことが足枷になるだろう。

またそう宣言しておくことでやり始める予定のない者たちは、一歩を踏み出さないでいいように言い訳しているのだろうし、世の中の方をそういうことにしておきたいのだろう。

 

「自分を勘違いしている」だとか「自信の根拠はなんだ」とか、非難げに問う輩が登場するかもしれない。

どうしてそんなに正確に自分がダメだと見極めなければならないか? 自信が自信の根拠ではないのか? と逆に質問してやる。やりたいけど、飛び込めない者が決まってそう言うのだ。不安と恐れと心配にかられているのであるから、慰め、励ましてあげよう。

 

だが実際のところ、僕も31から32歳にかけて、次のようなシュミレーション小説を書き、『いまの気分』を記録しておこうとしたものだった。

 

夢の周辺

 

プロローグ

 

失意の底から立ち上がり、荒野を歩く若者がいた。

若者は夢を抱いてはいたが、自分が何者であるかはっきりと見つけてはいなかった。

ほんの数か月前、若者は勤めていた先を飛び出したばかりだった。かつて若者はそこで苦悩し、葛藤し、鬱と憤怒で半狂乱となった。しかしそのことで心のタガは灼き切れ、囚われから解き放された。そして同時に、若者は自分の自然な感情に逆らわなくなった。

若者が新たな一歩を踏み出したとき、周囲の者は冷たく去った。若者は名もなく、貧しく、行くあてもなかった。あるものといえば、多額の借金とそれから死の狂乱にも似た夢への情熱だけだった。若者にとって夢は生きることと同じだった。

荒野を歩きながら夢を抱く者はある時、こう閃いた。

全てをなくした者は逆に自分のもっているものを他人に与えるしかないのではないか、と。

この考えはそのご若者の信念にすらなったが、何ももたない自分がなぜこんな考えに至ったのか解らなかった。

この若者をひとまず『夢を抱く者』と呼ぶことにしよう。

『夢を抱く者』の歩く天空には鷹が一羽、音もなく両翼を広げて飛翔していた。

『夢を抱く者』が最初に出会ったのは《現実主義者》だった。彼はしたり顔でこう教えた。

「現実は厳しい。君が考えているほど甘くはない。そんな甘い考えではこの厳しい世の中は生きてはいけない」

『夢を抱く者』はこう思った。ーーと、誰かに聞いたんだろ? 怖くてやり始めなかった者に共通の態度にすぎない。

現実が甘いのはあなたを観ればよく分かりますよ。現実が甘いのはあなたの甘さの証明なのだ。甘いあなたがそうやってのうのうと生きているんだ。あなたが生きていて、わたしが生きていけないはずはない。

『夢を抱く者』の対決はすでに始まっていた。

《現実主義者》は怒った顔で言った。

「夢ではご飯は食えない。夢は夜見るものだ。昼間は現実を直視しなければいけない」

わたしは、昼間に夢を見ているのではない。願望が現実することをすでに知っているだけだ。実現し、また実現していくことが確実なことを夢とは言わない。

『夢を抱く者』はそう、目で訴えた。

「よくいるんだ。現実が辛いものだから、理想を夢見ることで現実から逃げようという輩が。君は現実を逃避している夢想家だ」

現実を辛い物にしているのはあなた自身だ。あなたと社会の共同作業だ。

第一に、わたしはもっともっと大きなものを求めている。予想できるちんまりしたものでなく、金も女も権力も名声も地位も名誉も、できる限り最大のものが欲しいのだ。また、昼の日中に街中をぶらつく自由も、寝転がって野に咲く花や草と語るひとときも、夜空の星々を見上げ悠久の時の流れを空想するロマンも欲しいのだ。

決意をあらたにしながら『夢を抱く者』は拳を固めながら天を仰いだ。

《現実主義者》はせせら笑いながら言った。

「弱肉強食の競争社会で敗れた敗北者に一体なにができるというのか」

『夢を抱く者』は思った。

どうして、砂場で絵を描きたい者が野球のトーナメントを勝ち抜く必要があるか。第一、わたしは何かから逃げたのではなく、何かに挑んだのだ。

わたしの挑んだのは、本当の自分であった。自分の成りうる最高の姿を経験したいのだ。独立したのは実社会とのつながりを断ち切って隠遁生活を送りたいからではない。出家は修行の一部であり、悟った者は社会の中に居てこそ真価が問われるものだ。

自分が本当にやりたい仕事によって日々を創造し最高の自己を実現し、かつその結果、より高次元の欲望を満たしたいのだ。

それを手に入れた時、わたしはすべての対決にまさったと思うだろう。わたしには燦然と栄光が降り注ぎ、すべてが愛に満たされ、更なる創造の意欲だけが自分の喜びとなる。わたしはそういう自分になることを選んだのだ。自ら選び取ったのだ。

そしてわたしにはそれが今とそして未来における現実だと映っているが、もしそれをあなたが夢と言うのなら、それがわたしの夢だ。

《現実主義者》はこの夢想家を見下すかのように続けた。

「自分の夢なんてそんな贅沢なことを考えずに、いままで誰かがやっていたおいしい仕事をうまいこと潜り込んで食い扶持を確保して、それを地道にやっていくことだ。他人に奪われないよう手堅く守っていくんだ。人様の言いなりになって、言いつけどおりにやってな。夢ではお腹は一杯にならない」

さながら、虫だな。餌場の主がいなくなった途端、後釜につく習性。・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ウンヌンカンヌン

『夢を抱く者』が酒場で夢を語っていた時、「あなたに何ができると言うの?」と攻撃的な表情で口をはさむ者がいた。なんとそれは《苦労マニア》だった。こんなところに潜んでいたとは、不用心だった。

「私は苦労した。それはそれは苦労した。苦労して苦労して今の生活を手に入れた。苦しい目に何回も遭って、どん底から這い上がった。あなたにはその苦労が解るものですか。苦労していない者に、大層なことができるものですか」

『夢を抱く者』はこの横やりに戸惑った。おおいに戸惑った。

「苦労したことがないから、そういう甘い夢を描けるのよ。苦労の辛さもしらないくせに」

『夢を抱く者』はひるんだ。

「我慢が足りない。頑張りが足りない。現状も満足に乗り切れない人がよく言うわよ」

《苦労マニア》は悲鳴のような声で訴えた。やっと気持ちを立て直し『夢を抱く者』は思った。

苦労するから苦労するのではないですか? 《苦労マニア》はなおも畳み掛けた。

「そりゃあ、あたしだって楽してカネが欲しいわよ。でも、そんなカネ、カネじゃないわ。汗水たらさなきゃ」

できれば自他共に喜んだ末にカネを得たいものですね。と、『夢を抱く者』はじっと《苦労マニア》の目を見ながら思った。

「もっと苦しんでからでないと一人前ではないわ。私のどん底の苦しみを味あわせてあげたいものだわ」《苦労マニア》は声をあらげて吐いたのち、最後に小馬鹿にしたようにつぶやいた。「まあ、でもどうせだから、やってみなさいよ。どうせうまくいかないんだから」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ウンヌンカンヌン

 

《現実主義者》《苦労マニア》《予想屋》《正直者》《予言者》などが登場して、このような問答が延々と続く。しばらく書いてみたが、これはいくら書いても終わりがないと気づき、やめた。

彼らはその時々の僕の影でしかなかった。世間にこだましている暗くて重くて固い噂を上手に捕まえては影を形成してくれている脇役なのだ。僕のすることはそれを吸収して光に変えることだと思った。軽やかに朗らかに明るく笑って生きるのだ。

 

やり始めたかたこそ、わたしには彼らが生じた。しかし彼らには未だわたしが生じていない。

 

スタートする以前であれば、自分も似たような考えをしていて溶け込んでいるので聞き流し特になんとも思わないことだろう。せいぜい

「考えは人それぞれ」くらいに見え、中には「立派な自分は誰の考えも尊重してあげなければ」とでも思っている人もいるのだろう。ところが、自分を宣言した途端、差異が明瞭になり、それと自分がどう違うかを見極めるようになる。相手も本音を剥きつけにして押し付けてくるので尚更だ。(相手は己の不安を明かしたのである)多くのばあい、彼らは僕=『個の自分』の影でありまた、全体の闇である。自分をスタートさせる前の暗く重く低く固い、うごめく存在たちだ。僕が何者かを明確にするために彼らは目の前に生じた。

そのように諦観することで彼らを邪魔者どころかむしろ観察対象として有益な存在と見なすことができる。

が、ただ個々人として暗く在るだけでなく言動をもってこちらに実害を及ぼすようなら、宇宙の法則に従い彼ら自身が自ら撒いた種によって多大な損害をこうむるので、やめさせてやるべきとわたしは思っている。(だが、残念なことに彼らは身を焼き焦がしてまでも己の責任を押し付けようと躍起になるばかりだ。本当に慈しむべき憐れな役回りをしている者たちだと思う)

 

新しいことを始める。自分を宣言する。夢を生きる。

 

そのことの周りにあることについて僕が把握していることはたくさんある。けれどもここで全てを明らかにすることはやめておく。いたずらに先入観を与えるのは得策ではないし、いまスタートを切ったばかりの人たちには周囲の人たちのなす様が新発見となって面白いだろうから。生々しい姿はきっとあなたの糧になる。

もし、彼らに出会っても決して、苛立ったり怒ったりすることはない。文句を言い返すどころか、理解し、頭をなでてあげよう。

そしてもっともっと大人になっていけばいい。物事の本質を見極め、センスの好い、知性ある、賢明な、物事を動かす、素敵な大人に。